仏教から学ぶ「人生の苦しみ」からの脱出方法

哲学・宗教
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自分の行く手にあるのは老いと病と死、ただそれだけなのに、それに向かって生き続けていくことになんの意味があるのだろうか?人間であればいつかは嫌でも体感せざるを得ないリアリティな苦悩があり、それに気づいた途端人生のカウントダウンが始まるのです。

そんな私たちの苦悩を救ってくれる救世主が現れるのだろうか?神のような救世主はいるのだろうか?

そんなものは現れないし、いないとしたのがブッダです。ブッダが言うには「老いも病も死も苦しみではなく、老い、病、死から離れられないのが苦しみ」なのです。

煩悩から離れることで私たちは正しい人生を歩めるはずなのです。ということで今回は煩悩という執着心から離れるためにブッダが説いた仏教を紹介したいと思います。

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ブッダが目指したもの

この苦しみの世界で私たちが平穏に生きていく人生をどうしたらよいか?それをブッダは目指しました。

老い、病、死という自然の摂理を変えることができないのであれば、それを受け入れる自分を変えるしかないのです。

苦しみの原因は老いなのか、それとも永遠に若くありたいと思うことなのか

例えば苦しみの原因が老いであれば、それを解決することは不可能です。

苦しみの原因が老いではなく、永遠に若くありたいと思う心の願望であれば、解決方法はあります。それは老いを受け入れることです。そしてそれが苦しみを消す唯一の道なのです。

四諦八正道

四諦

四諦とは苦しみが生じるプロセスと苦しみをなくす解決方法の4つの真理。

  1. 苦諦:生きることは本質的に苦であるという真理
  2. 集諦:苦しみの原因は煩悩であるという真理
  3. 滅諦:煩悩を消すことで苦しみを滅するという真理
  4. 道諦:苦しみの滅を実現する真理

簡単にいうと、人生は苦しみだらけだけど、その苦しみは煩悩といって執着するのが原因であり、それを無くせば苦しみから開放されますよ〜。それでその方法もありますよ!ってことです。

八正道

煩悩を消し去る方法がこの「八正道」なのです。

  1. 正見:正しいものの見方
  2. 正思惟:正しい考え方
  3. 正語:正しい言葉づかい
  4. 正業:正しい行い
  5. 正命:正しい生活
  6. 正精進:正しい努力
  7. 正念:正しい自覚
  8. 正しい瞑想

煩悩の中のおおもと「無明」

百八煩悩というくらいですから、煩悩の数はかなりあります。この中でブッダは「無明」が煩悩のおおもとだと考えました。

無明とは知恵がないことを意味します。つまり知恵がないことが煩悩の根源になっているのです。

知恵がないとはどういうことかというと、「この世のことを正しく捉える力がない」ということです。正しく捉えれないということは、言い換えると、「自分の都合のいいように世界を見ている」ということです。

永遠不滅なものはない。全ては時とともに変化する

この世の正しい姿をとらえるには、全てのものは刻々と変化するものであり、永遠不滅なものなどないということを理解しなくてはなりません。これを「諸行無常」といいます。

「永遠に若さを保ちたい!」なんてのは無明なのです。なぜかというと、それは諸行無常を理解していないからです。諸行無常を理解することで、無明から距離を置くことができるようになるのですね。

自我という執着が無明を作る

自分の利益のため、自分の家族のため・・・私たちは世界の中心に自分を置き、自分の都合の良い見方でものを見ます。

自我に囚われ自分中心の世界を構築する限り、執着から逃れる方法はありません。

ブッダは自分中心の世界に囚われることを愚かの極みとし、自分の存在を否定しました。「自分」という存在を消すことで、自分中心の世界も消え、執着もなくなるというわけです。これを「諸法無我」といいます。

「諸行無常」と「諸法無我」という世界を正しく見る2つの羅針盤

上記で紹介したように「諸行無常」と「諸法無我」が私たちの無明を晴らし、世界を正しく見るための羅針盤になります。もう一度この言葉の意味をおさらいしておきましょう。

  • 諸行無常:この世は刻々と流れていき、永遠不滅のものはない
  • 諸法無我:「自分」とか「自分のもの」という絶対的に存在するものはなく、すべてのものは関係性として存在している。

瞑想という精神修行で正しい世界を見る

私たちが簡単に想像できる瞑想とは「座禅」の姿です。

ただ目を閉じて座っているかのように見えますが、行っていることは外界からの情報全てを断ち、全神経を内面に向けているのです。そもそも煩悩というものは外界の情報が入ってくることであらわれます。だからそれを断つことで雑念を取り払い、正しくものごとを見れるようになるのです。

私はひとつの存在であるようで、ひとつの存在ではない

私たちは「自分」をひとつの存在だと思いがちですが、そうではないのです。いろいろな要素が詰まっている集合体が「自分」なんですね。

例えば、父と母から遺伝子をもらい、母親から栄養をもらい人間として生を受け、多くの環境から人格を形成し「自分」というモノを作り上げてきました。しかし「自分=◯◯」と断定することはできません。なぜかというと、「自分」は多くの集合体から形成されており、単一のもので指し示すことができないからです。

また「自分」だけが多くの集合体でできているわけではなく、父も母も友人も、動物も人間も多くの集合体からできているのです。すなわち、すべてのものが多くの集合体から形成されており、そこには分け隔てるものはありません。

多くの集合体は時とともにバラバラにされていきますが、そのバラバラにされたものが集まり、また新しい集合体として形作られていきます。いつまでも同じ形で変わらないものなどないのです。

「私」や「わたし」という集合体も変わり続け、また新しい「何か」に変わっていきます。世界があって私たちがあるように、私たちがあって世界を作っていくのです。

まとめ

「人生は苦だ」とブッダは言いました。その苦は私たち人間の欲望(長生きしたい、頭良くなりたい、もてたいなどなど)からきます。

その欲望から離れるためには、形あるものはいつかは崩れることを理解すること、そして自分という執着を捨てることです。それを行うためには瞑想による精神修行が必要なんですね。ただ、瞑想は目的ではなく手段になります。瞑想により外界からの情報を遮断し、モノゴトの本質を正しく見るのです。正しくモノゴトを見ることができれば、私たちが思うような人生の苦しみからは離れることができるようになります。