6年ぶりに犬を飼い始めて気がつくこと

雑記
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犬を6年ぶりに飼い始めた。前の犬種と同じラブラドールレトリーバーだ。ペットロスが恐ろしく、新しい犬を飼うことになかなか踏み切れなかった。それに加えて、生き物を飼うということは生活に一定の縛りを設けることになる。

 

しかし、縁あって9歳のラブラドールレトリーバーを家で預かることになった。預かると言ってもこれから先、死ぬまで飼い続けることになるだろう。前の犬が16歳で亡くなったことを考えると5〜7年くらいの付き合いになると思う。またペットロスがあると思うと考えものだけれど、とりあえず今は犬が家にいる生活を懐かしんでいる。

前の犬は、ぼくが小学5年生の頃に2歳で家にやってきた。盲導犬になるために訓練されたが適性が合わず盲導犬になれなかった、いわば盲導犬界の落ちこぼれの犬だ(ほとんどが盲導犬になれないのだけれど)。なぜなれなかったのかというと、訓練をした人曰く「マイペースだから」ということだった。たしかに一緒に生活しはじめて、マイペースさを感じた。でも「ラブラドールレトリーバーってこんなものなのだろうなぁ」と考えていた。

 

その犬とは、ぼくが大学生になり実家をでるまで一緒の家で過ごした。この記事を書いている最中も涙ぐんでしまうほど、かけがえのない思い出が詰まっている。だからこそ、死んだ時は本当に悲しかった。犬の訃報を母親から受けたときは、心の一部が切り取られたような衝撃を受けたのを覚えている。

 

慌てて実家に戻ると、尻尾を振りながら玄関先まで出迎えてくれる犬の姿はもうなかった。部屋に入ると、2度と動くことのない犬の姿が横たわっていた。「眠っているかのような」、そんな使い古された言葉がうってつけだった。

 

翌日、ペットの葬儀ができる場所に遺体を運び、火葬をお願いした。火葬場にペットが押し込まれるのを見たとき、走馬灯のようにペットとの思い出が蘇ってきた。焼却されるまでの40分間はなんとも言えない気持ちのまま、家族と車の中で時が経つのを待っていた。

 

40分後、焼却場に戻った。けむくじゃらだった姿は、博物館で見たことがあるような骨の姿に変わっていた。なんとも言えない臭いと共に、遺骨を骨壺に入れて…ぼくと犬の思い出はそこで終了した。

 

あれから6年。再び家にラブラドールレトリーバーがやってきた。小学5年生のときと比べるとぼくははるかに歳を取った。当時は「人が死ぬ」「ペットが死ぬ」なんてことは想像もしなかった年頃だ。ましてや自分が20歳を超えるとか、自分にも死ぬ可能性があるとか、そんな先のことは考えられなかった。でも、今は考える。自分が歳を取ることも、人が死ぬことも。そして、家に来たばかりの犬が死ぬことも。

 

だけれども、ぼくの心は犬と一緒にまた生活できることに喜びを感じていた。この気持ちは小学5年生の頃となにも変わっていなかった。ラブラドールレトリーバーは人懐っこい犬と言われているし、盲導犬に選ばれるくらいに賢いので、噛まれる心配はほとんどない。しかし、最初に触るときには勇気がいる。体が大きいのは当然として、あの牙を見たら、たとえ甘噛みであろうともただでは済まなそうだからだ。

 

恐る恐る手を伸ばしてみると、鼻をスンスン鳴らして、ペロッと舐めてくれた。どうやら大丈夫だったようだ。そこからご飯をあげたり、散歩をしたり、ボール遊びをしていると、どうやら「こいつは自分より上である」という犬の序列が決まり、そこからは前の犬と同じような生活ができるようになった。

 

一緒に生活をしていると、前の犬と似ているところもあれば違うところもあることに気がつく。たとえば、前の犬はごはんを綺麗に食べていた。1粒残さず食べて、そのあともお皿を綺麗に舐めていた。新しい犬は、1粒、2粒は残す。散歩から帰ってきた後の水を飲む量も違う。犬の個性に驚いた。

 

前の犬との共通部分は『散歩が好き』というところだ。散歩の準備をし始めると、犬のテンションは上がりだす。もう待ちきれないのだ。ちぎれんばかりに尻尾を振って外に飛び出す。そして散歩をするたびに、鼻を地面スレスレまで近づけて匂いを嗅ぎ、マーキングする場所を決めている。おしっこの量にも限りがあるから、どこにマーキングして、どこをマーキングしないかの分配を考えているのだろう。前の犬とそっくりだ。

 

そんな同じ犬の行動を見ていても、ぼくの成長は気づきを与えてれるようになっていた。知識をたくわえた脳からは新しい気づきがもたらされる。昔は、「なんで同じ散歩コースで飽きないのだろう?なんで毎回同じ場所の匂いを嗅いでいるのだろう?」と疑問に思っていた。でも今なら、ある程度この疑問に答えられる。

 

その答えは、『一瞬たりとも同じ状態はないから』だ。世界は刻一刻と変化している。だから毎日の散歩コースは同じでも、世界は異なっているのだ。ぼくたち人間は抽象化能力が高いため、少々異なっていてもその差に気がつかない。気がつこうとしない。「だいたい同じよね」という言葉で片付ける。普通に生きていると四季の移り変わりぐらいしか、自然の変化を感じることはない。

 

しかし、ヒト以外の動物は違う(もちろん動物によっても異なるけど)。木の枝が一本折れていたり、花びらがおちていたり、そういう些細な変化に気づいているのだ(と思う)。

 

ヒトにはヒトの世界をみる認識装置が、犬には犬の世界をみる認識装置があるのだ。ぼくたちが見ている世界と犬が見ている世界は違う。たとえば、ぼくたちは春になれば桜の美しさを見るために桜の木を見上げる。だけれども、犬は見上げない。相変わらず鼻を地面にこすりつけるように下ばかりを見ている。ヒトからするとなんだかもったいないような気がするけれど、そこにはきっと犬なりの桜の楽しみがあるのだろう。落ちた花びらや花粉などの、春にしか混じり合わないニオイを楽しんでいるのだと思う。

 

再び犬を飼い始めて、「日々の変化をもっと楽しめ!今日は今日しかないぞ!」ということを教えてもらった気がする。ぼくの生活は単調なものだ。だけれども、二度と同じ単調さはこない。犬が同じ散歩道でも毎回楽しみながら歩くように、ぼくも単調な生活を楽しみたいと思う。

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