アドラー心理学入門の備忘録

individual psychology
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アドラー心理学入門を読んでいるので、その備忘録として記録を残していきます。

とってもおもしろいので、オススメの本です!

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アドラー心理学入門備忘録 1

アドラー心理学の目標

・育児の行動面の目標

1 自立する

2 社会と調和して暮らせる

・行動面を支える心理面の目標として

1 私は能力がある

2 人々は私の仲間である

→アドラー心理学を初めて読んだけど、僕が考えている教育像に近いものがあった。自立すること、私には能力があるということ、この2つは常に僕が考えていることである。

子供が自立するためには、徐々に親から離れていくことが必要(親も子供から離れていく勇気が必要)だけど、それを可能にするためには自信が必要である。その自信を生み出すものが「私には能力がある」と思えることだ。

アドラーも「私には能力がある」とは自分の人生の問題を自分の力で解決することができるという意味であり、このような能力があると感じることが自信を築く唯一の方法であると、言っています。

アドラー心理学における重要なキーワードの一つに「人々は私の仲間である」があり、人々が成長の過程において「仲間」に出会うことの重要性をアドラーは繰り返し述べている。子供にとって最初の「仲間」は母親ですが、母親はこの子供との関係をさらにまわりのすべての人へと広げさせなければなりません。自分とだけ関係を結ぶことに満足してはいけない、と考える。アドラー心理学のの特色は、この母親との関係がたとえうまくいかなかったとしても、そのことが致命的であるというわけではなく、のちに父親との、あるいは、それもうまくいかなくとも友人らとの関係がうまくいくならばそれでいい、考える。

・親の愛情だけで子供の教育はできるか?

愛情不足が子供の問題行動の原因である、と言われることはよくある。しかし、今日愛情不足というよりは親の側から言えば愛情過多、子供の側から言えば、十分愛されているにもかかわらずもっと愛して欲しい、親の愛を自分だけに向けないと気が済まないという意味で愛情飢餓のケースの方が多い。

→愛情過多というのは本当にそうな気がする。モンスターペアレントと呼ばれる親が多くなっているしね。

問題は愛されているかいないかというところにあるのではなく、愛情だけでは十分ではないということ。

アドラー心理学入門備忘録 2

・罰しない

アドラー心理学ではまず罰したり叱ったりすることを否定する。また、子供に恥をかかせたり、面目を失わせたりすることでこう小津を改善するよう影響を及ぼすことができるとは決して信じてはならない。罰すること、説教することでは何も得ることはできない。

→カーネギーの「人を動かす」でも書かれてたように相手を否定することでは何も生まれない。

また罰の効果は一時的であり、罰する人がいなければ不適切な行動をする。罰せられると自分には能力がないと思うようになり、子供が学校や家庭には居場所がないという気持ちを強くすることから、ひいてはこの世界には自分の居場所がない、と感じるようになり、人々は私の仲間ではない、自分の敵である、と感じるようになるでしょう。自分の居場所があると感じられることは、他の何を差し置いても人が求めるものである。

・誉めるのではない

子供にとって不適切な行動が親の目を引くという目的でなされているとすれば、その行動にはいっさい注目しない。しかしこれだけでは自体は変わらないか、以前より悪くなる可能性がある。なぜならそれまでは叱られるというような形であっても注目を得られていたのに、それすらなくなっていますから。だから不適切なこう小津には注目しないで、適切な行動に注目していく。適切な行動に注目されるのであれば、不適切な行動をしてまでも注目されようとする必要はないから。

しかし、この適切な行動に注目をあたえることは、ほめることではない。ほめるというのは、能力のある人がない人に、あなたは「良い」と上から下へと相手を判断し評価する言葉だから、下に置かれた人は愉快ではない。

ほめるのとは違って、つまり評価するのではなく、喜びを共有すること、自分の気持ちを伝えることが相手への勇気づけになる。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して「ありがとう」とか「うれしい」とか「助かった」と言ってみる。実際には多くの親がそんなことは当たり前だと思って見逃してしまうことが多い。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対してこそ「ありがとう」とか「うれしい」とか「助かった」というような言葉をかけることから始める。

→ほめるということを教育だと思ってやる親は多いのではないでしょうか。ほめることを教育だという下心を持ってするならば、悪い結果になると思います。アドラーが言っているように、評価をするのではなく、感謝の言葉、すなわち子供と自分を対等な存在と位置付けることが必要な気がする(僕の解釈)。対等な存在だと思えるから、子供にも自立心が出てくるんじゃないでしょうか。

アドラー心理学入門備忘録 3

子供の「存在」そのものに注目する。何か良いこと、優れていることをしたからではなく、ただ「存在」していることがすでに喜びであるということを伝える。

→人間は理想を脳内でイメージしたくなってしまうもの。それは子供にも当てはまってしまい、自分の中で理想の子供像を作ってしまう。

たとえば、親のいうことには一切口答えをしない理想的に従順な子供を考える。そうなると現実の目の前にいる子供はその理想から引き算することになりる。そうではなく、そのような理想を頭の中から追い出し、目の前にいるこの子供、この人から出発する。理想の子供を基準にして現実の子どもをそこから引き算するのではなく、ただ生きているという状態を基準にしてみていけば、「生きている」という事実そのものが、すでに喜びですし、どんなこともプラスに見ることができます。そして感じたことを言葉に出して言うことが勇気付けになるの。

→失ってから気がついては遅いものはどんなものにだってある。それは子どもも一緒。自分の描くままに子どもが成長することはない。それを卑下するのではなく、子どもの成長、そして存在自体を喜ぶ必要があるだろう。

・課題を分離するということ

もう一度育児の目標を考えると、こどもが自立し、社会と調和する、そのために人々が自分の仲間だと思え、自分には能力がある、と感じるためには、勇気づけの言葉だけではなく、子ども自身が自分の力で人生の課題に立ち向かう援助をしなければならない。これも勇気づけということができる。2つの側面に分けて考える。

人生の課題は原則として本人が解決しなければならない。アドラー心理学では「これは誰の課題か」という言い方をする。誰の課題かは最終的に誰が責任を引き受けなければならないかを考えればわかる。あるいは選択の結末を誰が最終的に引き受けるのかを考えればわかる。たとえば、勉強は誰の課題かといえば子どもの課題です。勉強が子どもの課題であるとすれば、いきあんり「勉強しなさい」と親が言うことは、子どもの課題に踏み込んだことになり、子どもとの衝突は避けることはできない。他方、こどもが勉強をしないことが気になるとすればそれは親の課題である。原則的に言えば糸の課題を引き受けることはできないし、自分の課題を他の人に解決してもらうこともできない。イライラするからといって、子供に宿題しなさいとはいえないということ。ところが、誰の課題かがわからないほど課題が混同されているのが現状ですから、もつれた人をほぐすようにこれは誰の課題、これは誰の課題というふうに、課題をきちんと分けていかなければならない。頼まれもしないのにこちらが勝手に判断して、相手は助けを必要としているであろうと考えて手出し口出しをしないということ。

→課題があるということはそれをする責任があるということ。責任を負うことができるのはやはり自立した人間にしかできない。良心で子どもの課題に口を出すということは、結果的に自立心を削いでいる行為なのだろう。

・共同の課題

しかし、私は私の人生を生きます、あなたはあなたの人生を生きてください、と言っているのではない。個人には能力の限界があり、一人で片付けられる課題ばかりではない。自分の力だけでなんとかしなければならないという思い込みが強いのもまた問題である。ですから家族の全員、あるいは一部が共同して解決しなければならない問題は絶えず起こっている。そのような場合は話し合って共同の課題を作る。

→つまり見守るということ。子どもの身に危険があるような場合はさすがに手を貸さないといけないが、それ以外では結果を見るのも良い勉強。何事にも口を出すのは簡単だが、それは優しさではない。子どもが行った結果がどうであれそれを受け入れるの優しさなんだろうな。

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