ニートになり生き続ける父親と、働き続け病気になって死ぬ父親

哲学・宗教
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長生きすることが人間の目標なのだろうか?

私たちはそれを意識し続けて人生を歩まないといけないと思うんです。

私がそう思うのは私の父親が原因なんだけど、この話を聞いたらきっと不快に思う人もいるはずです。今日はそんな不快に感じるかもしれない話ですが、あえてしようと思います。読むに耐えない場合はページを閉じてください。

 

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こんな父親に対して子どもはどう思うのだろうか?

仕事を辞めた父親

私の父親は、私が小学生の時に仕事をやめました。それは病気が原因で、病名はガンです。その時の父親の年齢は50手前でした。

今や2人に1人がガンで亡くなると言われる時代だから、何も不思議な話ではありません。タバコがガンに関係あると言われていても、吸い続けた父親ですからある意味自業自得でもあるし、病名が分かってもなおタバコを吸い続けた父親ですから、はたから見れば死を覚悟した男のようにも思えます。

父親の実家に私たち家族は住んでいるので、家のローンの心配はなし、私の母親も公務員として働いているので生活面での心配はありませんでした。

ありとあらゆる治療法を試す父親

病名を告げられた人の特徴でしょうが、ありとあらゆる健康的なモノを試すようになります。

私の父親もそれで、今まで気をつけていなかった食事、今までやっていなかった運動、サプリメント、足つぼ、マッサージ、スピリチュアル的な事、自分の体が良くなるためならお金の事は気にせず、どんどん使っていました。私の母もそれを許容していたようです。

また私にもその健康的と思い込んでいる生活を強要しました。

例えば、「この野菜が良い」とテレビか新聞か本などで分かれば、毎日それを食べさせられる。

「減塩が良い」となれば毎日減塩生活。

極端な生活が私ら家族を待ち受けました。全ては父親が長生きするために。ただしタバコはやめませんでした。

ストレスがない生活を行い続ける父親

ストレスが病気の根源だと思った父親は、極力ストレスがたまらない生活へとシフトしていきました。

つまり「嫌いなことや、めんどくさいことはしない」ってことです。またストレスを溜めないためにも、腹が立つことがあれば容赦なく怒っていました。(まぁそれはもともとの性格でしょうが)

そして父親は遊び続けました。趣味のゴルフ、釣り、麻雀・・・などなど。

口癖は「病気で入院する前に遊び尽くしておかないと」です。

何もしない父親

もともと炊事洗濯などの家事全般は母親がやってくれました。もちろん公務員として働きながらです。それで私たち子ども3人を育ててくれたのですから、いくら感謝があっても足りません。

もともとと言いましたが、それはずっとでした。

仕事を辞めた父親が、全部ではないにしろ一部は受け持つのが普通のようですが、私の父親は一切しませんでした。

じゃあ父親は一体何をしてるの?と疑問に思われるかもしれません。

「何もしてない。ただストレスのない生活を送っているだけ。ただ遊んでいるだけ。」が何の誇張もない表現になります。

相対的に長生きする父親

病名が分かってもう20年近くになります。好きな時に寝て、好きな時に起きて、好きなだけ遊ぶ。そんな父親ははたから見たら元気そうでした。本人は大病を患った人間だと思っていましたが。

この20年の間に、父親の同級生は何人も死にました。私が記憶する限り、その多くはガンです。2人に1人がガンで死ぬ時代ですから、何も不思議ではありません。

しかし、その同級生の死の多くが定年を迎えてからでした。「仕事も終わったし、これからはセカンドライフを楽しもう」とする人たちです。定年まで仕事を頑張り続けた人たちは、きっと多くのストレスや疲れが体を蝕んでいたのでしょう。

その子どもと父親

さて今までの話を見てきて、その父親の子どもである私は何を思っていると思います?

人によっては「父親が長生きしてるんだからハッピーに思ってる」と答える人がいるかもしれません。

しかし、私は全然ハッピーに思っていません。私が思っていることは「人は何のために生きるのか?」です。私と父親の関係があるので、理解が人によって異なるのは当然として、話を続けていきます。

私の父親は「子が父親を尊敬するのは当たり前だ」という考えの持ち主でした。ですが私は全く尊敬していません。

「大学まで行かせてやったのに父親を尊敬しないとは何事だ!」と怒鳴られたこともあります。ただその時も私の心にあったのは「行かせてやった・・・?大学の費用は祖父祖母、生活費は母親が出してくれたのに・・・あんた働いてないじゃん。」という思いでした。

私の中では「父親」という言葉の定義に未だ迷っています。

DNA提供者が父親なら、父親で納得します。

しかし、育ててくれたとか、養ってくれたとかでは私の父親のような人は該当しません。

祖父祖母の財産や、母親の給料を当てにしてただ遊んでいただけの私のDNA提供者。

何かしら尊敬される父親であるために

父親を嫌いと感じる子どもは数多くいると思います。

しかし、子どもも成長するにしたがって、辛い仕事を頑張ってきた父親に何らかの尊敬の念を抱くはずです。

子どもからそう思われるためには何かを頑張り続けないとダメなのでしょう。たとえ平均寿命まで生きることができなくても。

まぁ私の父親は例外的だとは思います。仕事を辞めても「主夫」になりさえすれば、今とは違う感情で父親と接することができたと思います。

 

私の父親は今でも「平均寿命までは生きないと」と言い続けています。「孫の成長を見たい」というのが今の生きる理由なのでしょうが、私の父親が社会に何の貢献もせず生き続けることは、ただ医療費と年金を垂れ流し続けていることに違いありません。まさしく孫のクレジットカードを使ってるというやつです。

次の世代に何かを残すことが、今を生きる私たちができることだと私は思うんです。次の世代に何も残さない、むしろ負担だけを残していく生き方は尊敬に値しません。定年を迎えた父親たちは、自分の子供たちには何かを残せたと思います。ではこれからは祖父として孫のために何かを残していきましょう。

長生きを目標にするのではなく、孫世代のために何かを残すことを目標にすると、最後まで美しい人生を送ることができると思います。

私はそうやって生きていくつもりです。それが私にとっての「人は何のために生きるのか?」の答えであり、ある意味それを教えてくれたのが父親なのです。

 

 

勢いで書いてしまい、まとまりもなければ、駄文だらけだと思うので、また手直しを加えていくつもりです。