西きょうじさんのポレポレ課外授業第2課「点から線へ。線から空間へ~共感とコミュニティー形成~」を観て

ポレポレ課外授業第2課 哲学・宗教
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本日も「Gallagher Note」をお読みいただきありがとうございます。
こんにちは、福山です。

西きょうじ先生のポレポレ課外授業第2課「点から線へ。線から空間へ~共感とコミュニティー形成~」を観ました。面白かったので備忘録的に記事に残します。備忘録的に書き留めたので文章がぐちゃぐちゃなので、いつか手直ししようと思います。(たぶん)

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共感とは本能的なものである

人がこけたら、「痛そうだなぁ」と思いますよね?これが共感の根源的なところです。

他にも、人が指差したところってついつい見てしまいますよね?これも共感の1つです。これができるのは人間だけで、他の動物はできません。

共感を定義すると、

共感とは、他の人の感情や意図を即座に感じ取り、同一化を通じて相手に対する行動をとる能力

です。

マウスの共感を調べるための実験をみてみます。

まずはマウスにレバーを押すことでエサがもらえる仕組みを学習させます。では次に、レバーを押すことで隣のマウスに電気ショックが与えるようにします。何回かやるとエサをもらえることと、隣のマウスが苦しんでいることにマウスは気づき、レバーを押すことをやめるのです。ただマウスの悲しいところはちょっとしかやめることができません。

さらに高等動物の猿になると、餓死寸前までレバーを押すことをやめるそうです。(同一個体の群れの猿ならば)

仲間を助けようとするのは動物共通の共感力なんですね。

人間は高度な共感能力を持っているはずなのだから、それをもっと生かすことで、協調的な世界を築きあげることが可能なのではないか、というのが西先生の見解です。

 

ミラーニューロンと共感

ミラーニューロンとは、他者の行動を見たときに自分がその行動を取っている場合と同じニューロンが発火するというもの。

グルメ番組なんか見ているとわかると思いますが、レポーターが「美味しい〜!」って言ってる時のニューロンと動きと、私たちの「美味しそうだなぁ」と思っている時のニューロンの動きが一緒なんですね。

さらにミラーニューロンのすごいことが研究で分かっています。

例えば、友達が手に持っているペットボトルを落としたとします。私たちはとっさの判断でそれをキャッチしようとするはずです。これは、友達が「あ、落としちゃった。拾わなきゃ!」というニューロンの動きが自分にも伝わってくるのです。これも共感能力の1つです。

日本人はこの共感能力が長けていると言われています。言葉を変えるなら「空気を読む力」ですね。ですがそれには問題もあります。

「空気を読みすぎる」

ということです。

空気を読めることは重要ですが、空気を読みすぎることはよくないです。また、日本人は空気を読めと、強要する風土があります。

空気を読める力と、空気に支配されない力、の両者を持つことが大切です。

コミュニティを形成しよう

都会のマンション住まいの人には理解されにくいでしょうが、田舎だと、村・町内会・働くところ(会社など)・家族の中に自分という個体がいました。つまり、地域の人・会社の人・家族と3つのコミュニティを持って、文明が発達するまで多くの人は過ごしていました。

ですが地域の人との関わり合いってめんどくさいもので(村社会とか言いますよね)、そんなものに縛られたくない!と若者は都会に出て行きます。そうすると、自分が所属するコミュニティは減って、会社と家族しかなくなります。

じゃあ会社をクビになったり、定年退職したらどうなるでしょう?残るコミュニティは家族しかありません。

家族と仲がいいですか?もし家族関係が悪ければ自分の所属するコミュニティは崩壊してしまいます。これが「孤独」となり、引きこもるようになります。

自分の殻を破って新たなコミュニティを作る必要性があります。自分というボーダーは超えなくてはならないのです。

自己変革するDNA

自分の殻を破るのは難しい!というかできない!と思うかもしれません。

だけど、できます、できるのです。

例えば、DNAと呼ばれる人間の設計図、絶対に変化することがないようなDNAでさえ変化します。環境によってDNAでさえ変化するということです。一卵性の双子が、小さいときに生き別れて別々の環境で過ごし大きくなりました。そこでDNAを調べてみると、本来なら同じであるはずのDNAが違っていたのです。

自分は孤独な人間だ・・・という思い込みをやめさえすれば、人は必ず変わることができます。だってDNAだって変わるんですから。

コミュニティの限界は150人

人がコミュニケートできるのは150人が限界です。大脳皮質の大きさが関係しているとか。

コミュニケートする人が増えれば、大脳の大きさは大きくなるけど、今の大脳のサイズでは150人が限界だということです。

だからネットがいくら発達して世界が繋がったとしても、全ての人がコミュニケートできるなんてのは幻想です。フェイスブックやってたらわかりますよね。ネットが広がれば広がるほど孤独を感じるというデータもあるくらいですから。

昔に戻ればいい?

コミュニティが壊れた今、日本人の内へ内へ向かう習性も合間って、「引きこもり」が増加しました。これに対して、村社会のような「昔に戻ればいい!」という人もいますが、それは不可能です。過ぎたものは簡単には戻りません。

村社会と今のネットの世界を止揚したような、具体的な場、具体的なコミュニティに所属することが大切です。

その具体的な場とは、何かに共感して集まってきた人たちが作りあげます。

持続しない共感

ケース1 強要

共感を強要、同調圧力、これは全体主義にしか結びつきません。

個人主義に対するものが全体主義で、意味としては、個人の活動は全体の成長・発展のために行わなければならないという思想です。

共感で最初は集まるけれども、外部の批判者を受け入れず、閉じた系のままで大きくなっていくと、ほかの考えを持つ人を敵とみなすようになります。

こうなると外部の人に対して攻撃するようになります。こうなる前に「共感」にストップをかけなくてはなりません。共感は自分の居場所、コミュニティを作るために非常に大切ですが、暴走する場合もあるということを覚えておく必要があります。

ケース2 理念化

共感を理念化してしまうと、内部から破壊されます。なぜかというと、理念化すると、それが正しくあり、美しくある、と思い込み、現実世界で生きるのではなく理念の世界で生きてしまうからです。そうなると、コミュニティで理念にそぐわない人がいると排除の動きに出ます。ちょっとでも理念と違う意見があれば、それを排除しない限り、内部分裂してしまうので排除するしかないのです。

非難と批判の違い

非難とは、「今の時代のやつらは」と言うときは、今の時代を作ってきたのはお前たちじゃないか?という問いが同居します。「これだからゆとりの世代は」と言うときは、ゆとりの世代の政治を作ったのはお前たちじゃないか?という問いが同居します。

この同居してることに自覚せずに、自分の身を安全なとこに置いて、他者に刃を突きつけることを非難と言います。

批判とは、わざわざ他者や世界に刃を突きつけることはしません。ですが、本当に他者や世界を変えたいのであれば、切りつけざるしかありません。自分が血を流すことを覚悟して切りつけていくのです。

自分がしていることが非難なのか批判なのかを一度立ち止まって見る必要がありますね。

安全性と利他行動

なぜ動物は群れるのか?群れずに個でいるより、群れでいる方が安全だからです。エサが取れない子どもや、怪我をして足を引きずっているものをサポートするために動物は群れるのです。群れでいることで利他的な行動がとれるのですね。

利他的な行動をとるためには、絶対的な条件があります。それは、「自分自身ができること」です。自分自身ができない状態で、ほかのものに手を差し伸べることは無理です。利他行動は、自分への義務が果たせてから行えるものです。

イタイという若者

人々は自分で築いたバリケードの中にいて、それを安住だと思い込んでいます。バリケードの外に出ようとする人を「イタイ」と表現し、バリケードの中にずっといることが人間としての幸せだと考えているのです。

大学生の間で「イタイ」という表現はよく使われますが、社会に出ても一緒です。「大企業というバリケードの中に入ったら安全だ!」みたいな。

バリケードの中が安全なんて限らない世の中なんだから、バリケードの外にちょっとは出る練習をしておいたほうが賢明ですよね。出て危なかったら、バリケードの中に戻る、ちょっとは出て戻る、昨日よりは少しでも遠くに出てみる、その練習をしておくべきです。

 

 

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