映画館で『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を観終わったとき、正直かなり戸惑いました。前作『ジョーカー』が好きだっただけに、席を立ちながら頭に浮かんだのは「これは自分が観たかったものじゃない」という感覚でした。
たぶん、同じように感じた人は少なくないと思います。前作のラストで、アーサー・フレックは“ジョーカー”として群衆に担ぎ上げられました。だから続編では、もっと過激に、もっとカリスマ的に、もっとゴッサムを混乱させるジョーカーが描かれる。そう思っていた人も多かったはずです。
でも本作が見せてきたのは、その逆でした。
『ジョーカー2』は、ジョーカーが完成していく映画ではありません。むしろ、ジョーカーという偶像から、アーサーが降りようとする映画です。
前作のような高揚感を期待すると、「ひどい」「つまらない」「思っていた続編と違う」と感じるのも無理はありません。私も最初はそちら側でした。ただ、後日配信で見返したとき、少しだけ印象が変わりました。
腹が立っていたのは、この映画が単純にひどかったからではなく、自分が観たかったジョーカーを見せてもらえなかったからではないか。そう思ったんです。
この記事では、前半で『ジョーカー2』がなぜひどい・つまらないと言われるのかをネタバレなしで整理します。そのあと後半では、ラストまで含めて、アーサーの死、リー、ミュージカル演出、若い囚人の意味を考えていきます。
ネタバレなし:『ジョーカー2』とはどんな映画か

一言でいうなら、『ジョーカー2』は「ジョーカーを求める人々」と「ただのアーサーに戻りたい男」のすれ違いを描いた映画です。
前作のアーサーは、社会から見捨てられ、笑われ、傷つけられ、最後には暴力によって自分の存在を世界に刻みつけました。その暴力を肯定はできません。それでも前作には、見てはいけないものを見ているような危うい引力がありました。
本作には、その引力がほとんどありません。
アーサーはゴッサムの街を自由に歩き回るのではなく、アーカム州立病院で裁判を待つ囚人として登場します。物語の中心も、街の暴動や犯罪ではなく、法廷、病院、そしてアーサーの内面です。
さらに本作では、ミュージカルシーンが何度も挿入されます。現実なのか、アーサーの心の中なのか、はっきりしない場面も多い。私も最初は「ここで歌うのか……」と少し置いていかれました。
ただ、この違和感こそが本作の核でもあります。前作で生まれてしまったジョーカーという偶像を、もう一度ほぐしていく。『ジョーカー2』は、そういう映画だったのだと思います。
「ひどい・つまらない」と言われる理由

評判が割れた最大の原因は、映画の出来そのものより、観客が期待したものと実際の映画が大きくズレていたことにあります。
とはいえ、「観客の期待が悪かった」で片づけるのも違います。映画として弱く見える部分は、たしかにあります。
まず、前作のカタルシスがほぼありません。社会に踏みにじられた男が限界まで追い詰められ、最後にジョーカーとして立ち上がる。あの解放感が本作にはない。アーサーは一貫して弱く、惨めで、迷い続けます。「次こそ暴れるのではないか」と待ちながら観ていると、ずっと肩透かしを食らう感覚になります。
舞台も、アーカム州立病院と法廷にほぼ閉じています。アーサーはもう街をさまよう男ではなく、裁かれる側の人間です。だから閉じた場所で話が進むのは自然なのですが、法廷劇として特別スリリングなわけでもなく、事件が次々起きるわけでもありません。「話が動かない」と感じる人がいても不思議はありません。
そして、一番賛否が分かれるのがミュージカル演出です。登場人物が突然歌い出し、現実と内面世界の境界が曖昧になります。アーサーにとって歌は、言葉では届かない感情の逃げ場なのだと思います。現実では誰にも届かない声が、歌の中でだけリーに届く。意味はちゃんとあります。ただ、意味があることと、観ていて楽しいことは別です。歌の場面が物語を前に進めるわけではないので、長く感じる人がいるのも当然でしょう。
リーの描かれ方にも、期待とのズレがあります。レディー・ガガが演じるリーは、ハーレイ・クインを下敷きにした人物です。だから、ジョーカーとハーレイが狂気の恋人として暴れ回る映画を期待した人もいたはずです。でも、本作のリーはそういうキャラクターではありません。彼女が見ているのは、弱くて不器用なアーサー本人ではなく、世間を騒がせたジョーカーという物語のほうです。
結局のところ、この映画は観客が見たいものをあまり見せてくれません。もっと暴れるジョーカー、もっと大きな反乱、もっと派手な悪のカリスマ。そういう期待に対して、本作は一貫して「それはありません」と返してきます。
狙いは理解できます。でも、娯楽映画としては不親切です。「狙いは分かるけど、面白くはなかった」という感想は、まったく間違っていないと思います。
駄作なのか、意図的な作りなのか
結論から言えば、『ジョーカー2』は娯楽続編としてはかなり人を選びます。ただ、前作への批評としては筋が通っています。
本作は、ジョーカーをさらに神格化する映画ではありません。むしろ、ジョーカーを神格化した観客に冷や水を浴びせる映画です。
前作を観た私たちは、アーサー本人よりも、階段で踊り、群衆に持ち上げられたジョーカーのほうに惹かれていたのかもしれません。弱くて惨めなアーサーではなく、かっこよく暴れるジョーカーを見たかった。そのことを、本作はかなり意地悪に突いてきます。
だから評価が割れます。ひどいと言う人の気持ちも分かるし、好きだと言う人の気持ちも分かる。どちらか一方だけが正しいのではなく、不満と納得が同時に残る映画なのだと思います。
ここから先は、ラストまでの内容に触れます。未鑑賞の方は注意してください。
ネタバレあり:結末と各場面の考察
物語は、前作から約2年後のアーカム州立病院から始まります。アーサーは前作の殺人事件の裁判を待っており、弁護側は「ジョーカーはアーサーとは別の人格だった」と主張します。
法廷上の争点は、アーサーの責任能力です。ただ、映画が本当に問うているのは、もう少し別のことでした。
ジョーカーは本当に存在するのか。それとも、アーサーが作り出した仮面にすぎないのか。この問いが、本作全体を貫いています。
裁判が問う「ジョーカーは存在するのか」
本作の裁判は、単にアーサーの罪を裁く場ではありません。前作で生まれたジョーカーという偶像そのものを裁く場でもあります。
弁護側は、アーサーの中にジョーカーという別人格がいたと主張します。信奉者たちは、ジョーカーを反逆の象徴として崇拝します。メディアは、刺激的な事件の主役としてジョーカーを消費します。そしてリーは、その物語に自分を重ねます。
みんな、アーサー本人を見ているようで、実はジョーカーを見ている。ここに本作の残酷さがあります。アーサーは、ジョーカーでいるときだけ人から見てもらえる。誰かに見てほしいのに、自分自身としては見てもらえないのです。
これは映画の中だけの話ではなく、少しだけ現実にも重なります。一度バズった人が「そのキャラ」を求められ続け、本人はもう疲れているのに周囲がやめさせてくれない。アーサーとジョーカーの関係は、その極端な形にも見えます。
冒頭のアニメーションも、この構図の縮図です。アーサー本人とは別に、ジョーカーという影が勝手に動き出し、本人以上に目立ち、求められ、本人を置き去りにして大きくなっていく。
ジョーカーは、アーサーの内面から生まれた仮面であると同時に、社会が作り上げた偶像でもあります。だから本人が「もうジョーカーではない」と言っても、その影は消えません。むしろ本人から離れて、一人歩きしていくのです。
リーはアーサーを愛していたのか

リーは、アーサーにとって初めて現れた理解者のように見えます。関心を示し、歌を通じて心を通わせ、まるで彼を分かっているかのように振る舞います。
でも物語が進むほど、彼女が見ていたのはアーサー本人ではなかったと感じられてきます。
リーにとってジョーカーは、退屈な現実を壊し、自分を特別な場所へ連れていってくれる物語でした。だからアーサーがジョーカーである限り、彼女は寄り添う。けれど、アーサーが「ジョーカーはいない」と言った瞬間、二人の関係は崩れます。
アーサーが欲しかったのは愛でした。リーが欲しかったのは、愛というより、ジョーカーという物語だったのかもしれません。
恋愛の話として見ると、これはかなりしんどい。相手は自分を見てくれていると思っていたのに、相手が見ていたのは自分についたイメージだけだった。そう考えると、アーサーの孤独はどこまでも深いです。
ミュージカルシーンは何の意味があったのか

本作のミュージカルシーンは、アーサーの逃避と願望として見ると腑に落ちます。
現実のアーサーは、管理され、笑われ、傷つけられる囚人です。自分の気持ちをうまく言葉にできず、誰かとまともにつながることもできません。
でも、歌の中では違います。彼は舞台の中心に立てる。リーと愛し合える。観客から拍手を浴びられる。自分が特別な存在だと思える。歌は、現実で奪われたものをぜんぶ取り戻せる場所なのです。
ただ、正直に言えば、私は初見で「長いな」と感じました。同じ孤独や逃避を何度もなぞるように見える場面があって、後から意味は理解できても、あのときの退屈さまで消えたわけではありません。意味と面白さがきれいに一致しない。このあたりが、本作のいちばん難しいところだと思います。
ゲイリーとリッキーが現実に引き戻す
アーサーを現実に引き戻す出来事が、二つあります。
ひとつは、前作で同僚だったゲイリーの証言です。彼は法廷で、アーサーの暴力によって自分がどれほど恐怖したかを語ります。
ここで初めて、ジョーカーという物語に「具体的な被害者の顔」が生まれます。前作では、ジョーカーの暴力は群衆の熱狂と結びついていました。しかしゲイリーの言葉によって、それが誰かの人生に消えない傷を残したことが、はっきりと立ち上がってきます。
もうひとつは、アーカムで起きる暴力です。アーサーに憧れていた若い収容者リッキーが、看守の暴力によって命を落としたように描かれます。
周囲はジョーカーを反逆の象徴だと信じています。でも現実のアーサーは、目の前の暴力から自分も他人も守れません。革命家でもカリスマでもなく、ただ怯え、傷つき、追い詰められている一人の男です。
ジョーカーを演じても、現実は変わらない。むしろ周囲にさらなる痛みを生んでしまう。この事実が、アーサーを次の決断へと向かわせます。
「ジョーカーはいない」という告白

法廷でアーサーは、「ジョーカーはいない」と認めます。ここが本作の核心です。
別人格に罪を押しつけることもできました。演じ続ければ信奉者の期待に応え、リーの関心もつなぎとめられたかもしれません。でも彼はそれをやめます。罪を犯したのはジョーカーではなく、自分自身だと認めるのです。
これは美しい救済ではありません。遅すぎる告白ですし、罪が消えるわけでもない。それでも、アーサーが初めて仮面を外そうとした瞬間ではあります。
ところが、その瞬間に周囲は彼を見捨てます。
信奉者が欲しかったのは、罪を認めるアーサーではありません。リーが欲しかったのも、弱いアーサーではありません。彼らが求めていたのは、あくまでジョーカーでした。
アーサーがやっと自分自身に戻ろうとした瞬間に、誰も彼を必要としなくなる。本作で一番残酷なのは、この場面だと思います。
その後の法廷爆破も、救出ではありません。アーサー本人が「ジョーカーはいない」と言っても、群衆は受け入れず、自分たちが見たいジョーカーを見続けます。爆破は、アーサーの意思とは無関係に、ジョーカーという記号だけが暴走している場面です。ここで本人と偶像は完全に切り離されます。前作で生まれた物語は、もうアーサー本人のものではなく、社会が勝手に作り、勝手に熱狂させるものになってしまったのです。
ラストでアーサーは死んだのか
ラストでアーサーは、アーカムの若い囚人に刺されます。映像上は、ここでアーサー・フレックの人生が終わったと受け取るのが自然です。
ただ、これは単なる死ではありません。ジョーカーを降りようとしたアーサーが消えたあと、若い囚人が自分の口元を傷つけるような仕草を見せます。ジョーカーの裂けた口を連想させる描写です。
アーサーは終わった。でも、ジョーカーは終わらない。この一点に、本作の結末のすべてが凝縮されています。
若い囚人は新しいジョーカーなのか

若い囚人が本当に新しいジョーカーなのかは、映画の中では明言されません。ただ、演出としては強く示唆されています。
重要なのは、アーサーが「本物のジョーカー」になりきれなかった男として描かれていることです。暴力の象徴として祭り上げられても、本質は愛されたかっただけの弱い人間でした。
一方、若い囚人はアーサーの痛みや人間性には興味がないように見えます。彼が受け取ったのは、ジョーカーという記号だけ。しかもそのジョーカーは、愛を求めていたアーサーよりも、もっと空虚で、もっと危険な形をしています。
一人の弱い男は消えても、彼が生んでしまった物語だけは、より純度の高い暴力になって残っていく。ここが、この結末のいちばん怖いところです。
タイトル「フォリ・ア・ドゥ」の意味
「フォリ・ア・ドゥ」とは、ざっくり言えば、二人の間で共有される妄想を指す言葉です。
本作ではまず、アーサーとリーの関係を指しているように見えます。二人で歌い、踊り、現実から離れて、自分たちだけの物語に逃げ込む。そこにはたしかに、二人で共有する幻想があります。
ただ、本作の妄想は二人だけでは終わりません。アーサーと群衆、ジョーカーとメディア、偶像とそれを求める社会。みんながジョーカーという物語に参加し、同じ妄想を共有していきます。
狂っていたのは、アーサーだけではありません。ジョーカーを求めた側もまた、同じ妄想の参加者だった。そう考えると、このタイトルはかなり皮肉が効いています。
見返して、評価が少し変わった
映画館で観たとき、私はかなりがっかりしていました。もっとジョーカーらしい映画が観たかったし、前作の延長にある物語がほしかったんです。
でも後から気づいたのは、私自身がアーサーではなくジョーカーを観に行っていた、ということでした。弱くて惨めなアーサーではなく、かっこよく暴れるジョーカーを見たかった。本作は、まさにその欲望を問い返してくる映画だったのだと思います。
そう気づいたとき、腹立たしさの質が少し変わりました。
もちろん、それで退屈さが全部消えるわけではありません。ミュージカルが長いと感じた場面も、裁判劇として物足りなかった部分も、そのままです。無理に褒める気はありません。
ただ、「なぜこういう作りにしたのか」が見えてくると、最初の違和感の意味が変わってきます。初見では腹が立つのに、後からじわじわ引っかかる。私には、そこにこの映画の面白さがありました。
まとめ:『ジョーカー2』は気持ちよく楽しませてくれない映画
『ジョーカー2』には、前作のような解放感はありません。ジョーカーの大暴れもない。リーとの狂気の恋愛も、期待ほど燃え上がらない。ラストに救いもありません。
だから「ひどい」「つまらない」と言われるのは自然です。
それでも、本作が描こうとしたことは一貫しています。ジョーカーという偶像が大きくなるほど、アーサー本人は誰にも見えなくなっていく。リーも、群衆も、メディアも、そして映画を観ている私たち自身も、アーサーよりジョーカーを求めていた。
娯楽続編としては人を選びます。でも、前作の熱狂を問い直す映画としては、かなり一貫しています。
気持ちよく楽しめる映画ではありませんでした。けれど、見終わったあとに残るものはあります。がっかりした気持ちごと、「自分は何を見たかったんだろう」と少し考えさせられる。そういう映画だったと、いまは思っています。
『ジョーカー1』の感想と考察は、別記事で詳しく書いています。
→映画『ジョーカー』ネタバレ感想・考察|なぜ“えぐい”のか、ラストの意味とバットマンとの関係
よくある質問
『ジョーカー2』はなぜひどいと言われるのですか?
前作のような解放感が少なく、ジョーカーが暴れ回る映画でもないからです。裁判劇とミュージカルが中心で、観客の期待を意図的に外す作りになっています。
『ジョーカー2』はつまらない映画ですか?
派手な展開や悪のカリスマとしてのジョーカーを期待すると、つまらないと感じやすいです。一方で、ジョーカーという偶像を解体する映画として観ると、考察しがいはあります。
ラストでアーサーは死んだのですか?
映像上は死亡したと見るのが自然です。物語としては、アーサー・フレックの終わりを描いていると考えられます。
若い囚人は新しいジョーカーなのですか?
映画内で明言されているわけではありません。ただ、口元を傷つける描写から、ジョーカーという概念が別の人間へ受け継がれたことを示唆しているように見えます。
リーはアーサーを愛していたのですか?
アーサー本人というより、ジョーカーという物語に惹かれていたと考える方が自然です。アーサーがジョーカーを否定した瞬間、二人の関係も崩れていきます。
ミュージカルシーンは必要だったのですか?
アーサーの逃避や願望を表す役割があります。ただ、物語をあまり前に進めない場面もあるため、冗長に感じる人がいるのも自然です。
ミュージカルが苦手でも大丈夫ですか?
歌そのものを楽しむタイプの映画ではないので、ミュージカルが苦手でも身構えすぎなくて大丈夫です。ただ、歌の場面が合わないとテンポの面で退屈に感じる可能性はあります。
前作を観ていなくても楽しめますか?
正直、前作を観てからの方がいいです。本作は前作でジョーカーという偶像が生まれたことを前提に、その偶像を解体していく映画だからです。
前作が好きな人ほど評価が低くなりやすいですか?
その傾向はあると思います。前作の覚醒の高揚感を期待すると、本作は肩透かしになりやすいです。ただ、前作の熱狂そのものを問い直す映画として観ると、印象が変わるかもしれません。
参考サイト
DC公式『Joker: Folie à Deux』
https://www.dc.com/movies/urn:dc:cms:feature:13079
Rotten Tomatoes
https://www.rottentomatoes.com/m/joker_folie_a_deux
Entertainment Weekly(Todd Phillips結末解説)
https://ew.com/joker-2-ending-explained-todd-phillips-arthur-choice-joker-identity-8723311
Vanity Fair(結末解説)
https://www.vanityfair.com/hollywood/story/joker-ending-2-folie-a-deux
Real Sound考察記事
https://realsound.jp/movie/2024/10/post-1817669.html


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