映画『すずめの戸締まり』感想・考察|あらすじとダイジン・ミミズ・要石の意味

扉の前に立つ少女と椅子を描いた、『すずめの戸締まり』感想・考察記事のアイキャッチ画像 劇場版アニメ
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※前半はネタバレなしで書いています。公式サイトや予告編で触れられる程度の設定には言及します。
※「ここからネタバレあり考察」以降は、結末まで詳しく触れます。
※本作には、地震を想起させる描写と警報音があります。苦手な方は事前に確認しておくと安心です。

『君の名は』も『天気の子』もあんまり好みではないのですが、U-NEXTにて新海誠監督の『すずめの戸締まり』を観ました。

この映画を観てしばらく、「戸締まり」という言葉が頭に残り続けました。

冒険映画の主人公は、だいたい扉を開けます。知らない世界へ踏み出すために、未来へ進むために、ずっと閉じられていた場所に手をかける。でも『すずめの戸締まり』で岩戸鈴芽がすることは逆で、彼女は日本各地を旅しながら、開いてしまった扉を閉めていきます。

閉める。

それが何を意味するのか、観はじめた頃はまだわかっていませんでした。でも最後まで見届けたあと、この「閉める」という行為が、すずめの傷や記憶と深く結びついていたことがわかって、すぐには言葉にできませんでした。

明るいロードムービーの形をした、とても静かで痛い映画でした。


基本情報

日本各地を旅しながら扉を閉めていく少女と椅子を描いた、映画『すずめの戸締まり』の導入イメージイラスト

『すずめの戸締まり』は、新海誠監督による2022年公開の劇場アニメーションです。公式サイトでは、「日本各地の廃墟を舞台に、災いのもととなる扉を閉めていく少女・すずめの解放と成長を描く現代の冒険物語」と紹介されています。

  • 公開日:2022年11月11日
  • 原作・脚本・監督:新海誠
  • 制作:コミックス・ウェーブ・フィルム
  • 配給:東宝
  • 音楽:RADWIMPS、陣内一真
  • 主題歌:「すずめ feat. 十明」「カナタハルカ」
  • 国内興行収入:約149.4億円(日本映画製作者連盟調べ)

基本情報だけを見ると、ファンタジー色の強い冒険映画に見えます。実際、ロードムービーとしてのテンポはよく、椅子が走り回る場面にはコミカルな楽しさもあります。ただ、物語の奥にあるのは、喪失、震災の記憶、そして「失われたものとどう生きるか」という重いテーマでした。


あらすじ(ネタバレなし)

廃墟の中に立つ扉と、その向こうの不思議な世界を見つめる少女を描いたネタバレなしあらすじ用イラスト

九州の静かな町で暮らす17歳の岩戸鈴芽は、ある朝、「扉を探している」と話す青年・宗像草太と出会います。その言葉が気になったすずめは草太の後を追い、山中の廃墟で奇妙な扉を見つけます。

扉の向こうには、現実離れしたほど美しい景色が広がっていました。ただし、そこはただ美しい場所ではありません。草太が「閉じ師」として封じてまわっている、災いへの入口でもありました。

やがてすずめは、白い猫・ダイジンに翻弄される形で、日本各地で開く扉を閉める旅に巻き込まれていきます。愛媛、神戸、東京へと続く旅の先で待っているのは、ただの冒険ではありません。すずめ自身が、ずっと心の奥に押し込んできた記憶と向き合う時間でもありました。


観やすいのに、どこかずっとざわつく

ロードムービーとしてのテンポは良く、正直かなり観やすい映画です。すずめが旅先で出会う人々——愛媛の千果、神戸のルミ、東京へ向かう道中で関わる芹澤——がみんな魅力的で、物語が重くなりすぎません。椅子が走り回る場面は普通に笑えるし、旅全体に軽快さがあります。

ただ、旅の舞台が毎回、少し寂しい場所なんです。閉園した施設、誰もいなくなった学校、人の気配が消えた町。かつてそこには、誰かの生活がありました。笑い声があって、仕事があって、「いってきます」があったはずです。

この映画は、そういう場所をただの背景として使いません。人が去った場所にも記憶があると、ちゃんと扱う。それが、見やすいのに胸の奥がざわつく理由だと思います。

旅は明るい。出会う人たちも温かい。なのに、すずめたちが閉めていく扉の向こうには、いつも失われた日常の気配があります。そこが『すずめの戸締まり』のいちばん好きなところでした。


こういう人に合う/合わないかもしれない

新海誠監督の映像美が好きな人、ロードムービーが好きな人、全部を理屈で説明されなくても象徴として受け取れる人には、かなり刺さる映画だと思います。『君の名は。』『天気の子』以降の新海作品を追っている人にも、見どころは多いです。

逆に、世界観の設定を隅まで言語化してほしい人や、偶然の出会いが続く展開を都合よく感じやすい人には、少し引っかかるかもしれません。また、本作には地震や警報音を連想させる描写があります。苦手な方は、公式サイトなどで事前に注意書きを確認しておく方が安心です。

恋愛映画として強く期待すると、少し違うかもしれません。すずめと草太の関係には恋愛的な空気もありますが、私はそれ以上に、喪失と再生の物語として観た方がしっくりきました。


ここからネタバレあり考察

ここから先は、結末までのネタバレを含みます。


ラストまでの流れをざっと整理する

すずめは草太と出会い、「後ろ戸」の存在を知ります。後ろ戸は、人の営みが途絶えた場所に現れる扉で、そこから「ミミズ」と呼ばれる巨大な力が出てくると、地震のような被害が起きてしまいます。草太は代々それを閉めてきた、閉じ師の家系の青年でした。

ところが、すずめが廃墟で要石を抜いてしまったことで、白い猫・ダイジンが解放されます。ダイジンは草太を小さな椅子の姿に変え、二人を各地の後ろ戸へ導いていく。旅の中で草太はやがて新たな要石にされてしまい、すずめは彼を救うために、そして自分自身の過去と向き合うために、かつて暮らしていた東北へ向かいます。

終盤で明かされるのは、すずめが幼いころに母を亡くしていたことです。幼いすずめは母を探して常世に迷い込み、そこで「あなたはちゃんと大きくなる」と伝えた「おばさん」に出会っていました。

その人物が誰だったかは、最後の場面で明かされます。現在のすずめ自身が、幼いすずめに会いに行っていたのです。

つまり『すずめの戸締まり』は、草太を救う物語であると同時に、すずめが幼いころの自分を救いに行く物語でもありました。


キャラクターと世界観を整理する

ここで一度、主要なキャラクターと世界観を整理しておきます。

すずめは、明るく行動力のある高校生です。ただ、その明るさの奥には、幼いころに母を失った傷があります。旅を通じて彼女が向き合うのは、災いそのものだけではなく、ずっと心の奥に押し込めてきた幼い自分でもありました。

草太は、後ろ戸を閉める「閉じ師」の家系に生まれた青年です。真面目で責任感が強く、自分を犠牲にしてでも役目を果たそうとする。ただ、個人的には、草太自身の背景や葛藤はもう少し見たかった気もします。椅子になっている時間が長いので仕方ない部分もありますが、彼の人生や閉じ師としての重さをもう少し知りたくなりました。

ダイジンは、ただのいたずら好きな猫ではありません。要石として長く災いを封じてきた存在であり、自由になりたかった存在であり、すずめに愛されたかった存在でもあります。「すずめの子になる」という言葉には、ただ飼われたいという以上の切実さがありました。

椅子は、すずめの母が作った思い出の品です。草太がその椅子になることで、すずめの過去、母の記憶、現在の旅がひとつに重なっていきます。最初は奇妙な設定に見えますが、最後まで観ると、この物語には椅子である必然があったのだと感じます。

後ろ戸は、現世と常世を分ける扉であり、忘れられた場所の記憶への入口でもあります。そしてミミズは、地震のような災いを形にした存在です。ただ、ミミズは単なる怪物ではありません。人間が忘れようとしても、足元に残り続ける不安や痛みのようにも見えます。


ダイジンは悪者じゃない、でも被害者とも言い切れない

白い猫の存在が悪役にも切ない存在にも見えるよう表現した、ダイジン考察用のイラスト

初見では、ダイジンはかなり厄介に見えます。草太を椅子に変える。すずめを振り回す。各地でトラブルを引き起こす。でも、最後まで観たあとにダイジンをただの悪役と呼ぶのは、どうも違う気がしました。

ダイジンはもともと要石でした。長いあいだ、ミミズを封じる役目を一人で背負わされていた存在です。すずめが要石を抜いたとき、ダイジンは初めて自由になれた。そして「うちの子になる?」という何気ないひと言に、全力で反応してしまった。

ダイジンが本当に欲しかったのは、世界を壊すことではないと思います。誰かに選ばれたかった。「役目」としてではなく、自分として見てもらいたかった。その切実さはわかります。

ただ、だからといってダイジンを完全な被害者として見るのも違う。彼の行動によって草太は苦しみ、すずめも危険にさらされます。ダイジンの無邪気さは、人間の目線からすると相当残酷です。

悪者というより、「人間の倫理では測れない神様の子ども」という感じ。寂しくて、自由で、わがままで、愛されたがっている。でもその願いが、人を傷つける。

終盤、ダイジンは再び要石へ戻ることを受け入れます。この場面は美しいけれど、素直に「よかった」とは言い切れませんでした。ダイジンは救われたのか。それとも、また役目の中へ戻されただけなのか。この映画でいちばん割り切れないのはここで、だからこそダイジンが一番忘れられないキャラクターになっています。

ダイジンは、最後まで「すずめの子」にはなれませんでした。けれど、すずめが大切にする世界を守る存在にはなった。

それは、ダイジンにとって別の形の家族だったのかもしれません。そばで甘えることはできなくても、すずめの未来を守る側に回る。そう考えると、ダイジンの最後はただ悲しいだけではなく、彼なりに「愛されたい」から「守りたい」へ変わっていった結末にも見えます。

ダイジンってずーっと孤独だったわけですよね。
そりゃ寂しいし、自由に動き回りたいよね。
だからこそ「うちの子になる?」って言われて、すごく嬉しかったんだと思う。


ミミズに「悪意」はない。それが一番怖い

地面の下に潜む巨大な災いを抽象的に描いた、ミミズの意味を説明するためのイラスト

ミミズには明確な悪意がありません。これがとても重要な設定です。

もしミミズが「倒すべき怪物」なら、物語はずっと単純になります。主人公が戦って勝てばいい。でもこの映画で描かれる災いは、誰かの悪意から生まれるものではありません。自然災害と同じように、人間の都合とは関係なくやってくる。

だからすずめたちは、ミミズを「倒す」のではなく「鎮める」。戦って勝つのではなく、扉を閉め、祈り、封じる。

新海監督はインタビューで、「ミミズ」という名前が村上春樹の短編『かえるくん、東京を救う』からの直接的な引用だと語っています。普段は見えないけれど、足元に確かにある不安。人間が忘れたころに動き出す、制御できない大きな力。そういうものとしてミミズは描かれていると思います。

さらに言えば、『すずめの戸締まり』という映画そのものも、少しミミズのような役割を持っていたのかもしれません。

普段は心の奥に沈めている震災の記憶や、うまく言葉にできない不安。そういうものを、この映画はもう一度こちら側へ引き上げてくる。観客にとっても、忘れかけていた痛みや問いが、映画をきっかけに表面へ出てきた人はいると思います。

ミミズが地下から現れるように、この映画もまた、見ないようにしていた記憶を静かに揺らす作品でした。

定期的に出てくる過去の辛い記憶って消せないですよね。
だからこそ、出てきたら、戸締りしてあげなきゃですね。


後ろ戸は「忘れられた場所の記憶」への入口

後ろ戸は、廃墟や人の営みが途絶えた場所に現れます。閉園した施設、廃校になった学校、誰もいなくなった町。

すずめが扉を閉めるとき、ただ鍵をかけるわけではありません。その場所に残っている記憶を感じ取る。かつてそこにあった暮らしを思い出す。感謝のような、祈りのような気持ちを込めて、そうして初めて扉が閉まる。

人がいなくなったからといって、そこに何もなかったことにはならない。そこには誰かの日常があった。この映画はそのことを、静かに、しかし繰り返し描いています。

この映画で描かれる閉じ師は、災いを防ぐ人であると同時に、誰にも見送られなくなった場所を最後に見送る人でもある気がします。

だから扉を閉める場面には、ただのバトルとは違う静けさがあります。勝つのではなく、鎮める。倒すのではなく、見送る。この感覚が、この映画を単なる災害ファンタジーではないものにしています。


「戸締まり」とは、忘れることではない

タイトルの意味を終盤に向けて整理すると、三層構造になっています。

一つは、災いを防ぐこと。後ろ戸を開けたままにすれば、ミミズが出て被害が出る。

一つは、場所を見送ること。もう使われなくなった場所に対して、「確かにここに日常があった」と認め、礼を言って閉める。

そして最後の一つが、すずめ自身の戸締まりです。外の世界にある後ろ戸だけではなく、すずめの心の奥に残っていた幼いころの記憶。母を失った日、受け入れられなかった喪失。それが、すずめにとって最大の後ろ戸でした。

ラストで、すずめは常世に迷い込んだ幼い自分と出会い、「あなたはちゃんと大きくなる」と伝えます。

これは過去を消す行為ではありません。むしろ、過去をちゃんと見つめることです。忘れるために閉めるのではない。忘れないまま生きていくために閉める。この映画の「戸締まり」はそういう行為で、だからタイトルがここまで刺さってきます。

忘れようとしていた嫌な気持ちや悲しい記憶が、ふとした瞬間に出てきそうになることがあります。押し込めても、なかったことにはできない。むしろ、見ないようにするほど、何度も戻ってくる。

だからこそ、ちゃんと向き合って、ちゃんとさよならすることが必要なのだと思います。

すずめにとっての戸締まりは、過去を封印することではありません。幼い自分の痛みを見つめて、「もう大丈夫」と伝えたうえで、今を生きる場所へ戻ってくることでした。


要石の設定にある、静かな残酷さ

災いを封じる石と、その上に成り立つ平穏を対比的に描いた要石考察用イラスト

要石という設定がとても重いのは、「誰かが引き受けなければならない」という構造にあります。

ダイジンは長いあいだ要石でした。草太もまた、新たな要石にされる。さらに終盤には、黒い猫の姿をしたサダイジンも現れます。彼もまた、災いを封じる側の存在です。この世界の平穏は、誰かの犠牲の上に成り立っている。

みんなを守るためなら、誰か一人が石になってもいいのか。

映画はこの問いに、すっきりした答えを出しません。草太は救われる。ダイジンとサダイジンが要石に戻ることで、災いは鎮まる。でもそれは同時に、ダイジンが自由を手放したということでもあります。

だからラストは完全なハッピーエンドとは言い切れない。救いがある。でも、痛みも残る。この苦さが、この映画をただの感動作に終わらせていないと思います。


草太が椅子になる意味

冷静に考えると、かなり奇妙な設定です。美しい青年が、三本脚の小さな椅子になって走り回る。字面だけ見ればほとんどギャグで、実際映画の中でも椅子の草太はコミカルです。

でも、この設定がよくできているのは、草太が椅子になることですずめとの関係が「恋愛」だけでなくなるからです。すずめが草太を取り戻そうとする姿は、恋する少女というより、「もう大切なものを失いたくない人」の必死さに近い。

そして椅子は、すずめにとって母の記憶そのものです。母が作ってくれた、脚が一本欠けても捨てられなかった小さな椅子。草太がその椅子になることで、すずめは草太を救う旅をしながら、同時に母の記憶を抱えて走り続けることになります。

あの奇妙な設定があるから、この映画はただの恋愛冒険映画にならずに済んでいる。最初は「なぜ椅子?」と思うのに、最後まで観ると、椅子でなければ成立しなかった物語だったのだと感じます。


環との場面が痛い理由

叔母の環との関係は、この映画の中でも特に生々しい部分です。

環はすずめを育てるために、自分の人生を大きく変えてきた。もちろん、それはすずめのせいではありません。でも、その中に疲れや後悔が積もっていたとしても、おかしくない。

終盤、感情があふれる環の場面がありました。あの言葉は、言ってはいけない言葉です。でも、まったく理解できない感情かと言われると、そうとも言えない。サダイジンの影響があったとしても、ゼロから生まれた感情ではなかったと思う。普段は押し込めているものが、むき出しになってしまった場面に見えました。

誰かを愛していること。その人のために人生が変わってしまったこと。この二つは同時に存在してしまう。この映画は家族を美談だけで描きません。愛情の中に疲れがあり、責任の中に怒りがあり、それでも関係を終わらせずに続けていく。その現実味があるから、すずめの旅はファンタジーなのに地に足がついています。


ラストで、すずめは誰を救ったのか

成長した少女が幼い自分に手を差し伸べる姿を描いた、ラスト考察用のイラスト

常世で幼いすずめと出会う場面。幼いすずめは母を探して、受け入れられないまま立ち尽くしています。そこへ現在のすずめが向かいます。

「あなたはちゃんと大きくなる。未来で人と出会い、笑い、誰かを好きになり、生きていく。」

過去は変わりません。母は戻ってこない。あの日に起きたことは、なかったことにならない。それでも、未来の自分が会いに来てくれる。「大丈夫だよ」と言いに来てくれる。

すずめが救ったのは、草太だけではありません。あの日から止まっていた、幼い自分自身でした。

このラストによって、『すずめの戸締まり』は災害ファンタジーから、喪失を抱えた人間の再生の物語へ変わります。世界を救う話でありながら、最後にたどり着くのは、とても個人的な救いなのです。


気になった部分も、正直に書く

好きな映画だからこそ、引っかかった部分も書いておきます。

すずめが旅先で出会う人たちが、みんな親切すぎるのは少し都合がいいと感じました。ご飯を出してくれる、泊めてくれる、車に乗せてくれる。映画の温かさとして機能しているのはわかるけれど、人によっては「うまく進みすぎ」と感じるかもしれません。

草太への感情が深まるスピードも少し速い。恋愛として見るなら、もう少し時間が欲しかった気はします。ただ、前述の通り、この映画の中心は恋愛ではなく喪失と再生だと思っているので、個人的にはそこまで引っかかりませんでした。

そして一番割り切れないのは、やっぱりダイジンの結末です。草太が救われるために、ダイジンが再び要石になる。必要な展開だったとしても、ダイジンの孤独を思うと、「よかった」と素直には言えない。この割り切れなさが映画から消えていないところに、正直すごさを感じます。

もうひとつ言うなら、草太自身の背景はもう少し見たかったです。閉じ師の家系に生まれ、災いを防ぐ役目を背負ってきた青年なのに、彼の内面はすずめほど深く描かれません。

もちろん、草太が椅子になるからこそ物語が面白くなっているのですが、そのぶん彼自身の孤独や葛藤は少し見えにくくなっています。真面目で責任感が強い人だからこそ、「自分が犠牲になればいい」と思ってしまう危うさも、もう少し掘り下げてほしかったところです。


『君の名は。』『天気の子』と何が違うか

新海誠作品を並べると、それぞれの違いが見えます。

『君の名は。』は、起こるはずだった災厄を「回避する」物語でした。時間と記憶を超えて、悲劇を書き換える。

『天気の子』は、世界の形が変わっても「一人を選ぶ」物語でした。普通のありかたより、大切な人を選ぶ。

そして『すずめの戸締まり』は、もう起きてしまった喪失と「共に生きる」物語です。奇跡で過去は変えられない。失ったものは戻らない。でも、扉を閉めてもう一度「いってきます」と言える。

この違いがいちばん大きく、だからこそ三作の中でも『すずめの戸締まり』は静かに残る映画だと感じました。


キャスト・音楽

声優の中で特に印象的だったのは三人です。

原菜乃華さんのすずめは、強さと危うさのバランスが絶妙でした。ただ元気なだけではなく、傷ついていて、それでも前に進もうとする感じが声に出ていました。

松村北斗さんの草太は、途中から椅子の姿になっても声だけで誠実さが伝わってくる。声優としての経験というより、キャラクターとしての誠実さが声に乗っていました。

神木隆之介さんの芹澤は、深刻になりすぎる終盤にほどよい空気を入れてくれます。彼がいるから、物語が重くなりすぎない。

ほかのキャストも豪華です。深津絵里さんが叔母の環、伊藤沙莉さんが神戸で出会うルミ、染谷将太さんが岡部稔、花澤香菜さんがすずめの母・椿芽、山根あんさんがダイジンを演じています。声優・キャストの全体は公式サイトでも確認できます。

音楽はRADWIMPSと陣内一真。主題歌「すずめ feat. 十明」は、祈りと記憶と神話がまじったような音で、映画の雰囲気を先取りしていました。一方で、芹澤の車で流れる懐メロは映画を一気に日常へ引き戻す。この落差が『すずめの戸締まり』の振れ幅を作っています。


総括

扉を閉めたあと前を向く少女を描いた、喪失と再生の総括イメージイラスト

『すずめの戸締まり』は、「閉める」映画です。でもそれは、過去を封じ込めるためではありません。

失われた場所の記憶を見届けて、幼い自分に「大丈夫」と伝えて、それからもう一度こちら側の世界へ帰ってくる。そのための行為です。

ダイジンは悪者ではありませんでした。ミミズに倒すべき理由はありませんでした。後ろ戸は、忘れられた記憶の入口でした。要石は、誰かの犠牲の上に成り立っていました。椅子は、喪失と再生をつなぐ記憶の形でした。

これだけの要素が積み重なって、最後にすずめが幼い自分に会いに行く場面で一気に収束する。そのとき初めて、タイトルの意味が全部つながりました。

失ったものは戻らない。でも人は、扉を閉めて、朝を迎えることができる。観終わってしばらく、本当にそう思わせてくれる映画でした。

こちらの記事で「新海誠”災厄三部作”」を考察しています
→『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』の違い|新海誠”災厄三部作”を考察


参考サイト

映画『すずめの戸締まり』公式サイト
https://suzume-tojimari-movie.jp/

コミックス・ウェーブ・フィルム作品紹介
https://www.cwfilms.jp/products/article/suzume.html

ファミ通.com 新海誠監督インタビュー
https://www.famitsu.com/news/202211/17282112.html

日本映画製作者連盟「日本映画産業統計」
https://www.eiren.org/toukei/2023.html

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