※この記事は、三作すべてを観終えた方を想定しています。結末を含む重要な展開に触れます。
※「災厄三部作」は公式のシリーズ名ではなく、三作に共通する災い・喪失・世界の変化を整理するための便宜上の呼び方として使っています。
三作を観終えて、しばらく経ったあとに気づいたことがあります。
新海誠監督の近年の三作は、似ているようで、実はまったく違う場所に立っている。
美しい空、印象的な音楽、会いたいのに会えない相手、現実と異界が交わる感覚。共通点はたくさんあります。でも三作で決定的に違うのは、主人公たちが「災いのどの時間に立っているか」です。

『君の名は。』の瀧と三葉は、起きるはずだった悲劇の手前に立っています。
『天気の子』の帆高は、世界が変わっていく最中にいます。
『すずめの戸締まり』のすずめは、もう起きてしまったあとにいます。
この違いが、三作の見え方を大きく変えます。
『君の名は。』は、間に合う物語

『君の名は。』の核にあるのは、「間に合うかもしれない」という焦りと希望です。
彗星が落ちる。三葉のいる糸守町が失われる。けれど、まだ変えられるかもしれない。瀧が過去へたどり着こうとするのは、起きてしまったことをなかったことにするためです。喪失を回避する。起こるはずだった悲劇を書き換える。それが物語の大きな推進力になっています。
だから『君の名は。』は、三作の中で一番まっすぐに感動しやすい。失われるはずだったものが最後には救われる。観客は「間に合った」という感覚を受け取ります。
ただ、観終わったあとに少し引っかかることがあります。あの奇跡は、誰にでも起きるわけではない。現実の喪失は、そう簡単には書き換えられない。
『君の名は。』はその引っかかりを、美しさと感動の中に包んでいます。だから観やすく、入口として強い。でも同時に、新海誠監督が次の作品で別の場所に立とうとした理由も、ここにあるような気がします。
『君の名は。』は、王道の映画ですね。
『天気の子』は、手放さない物語

『天気の子』は、三作の中で一番賛否が分かれる作品だと思います。
帆高の選択は、社会的に正しいとは言い切れません。世界の均衡より、目の前の陽菜を選ぶ。東京の一部は水に沈み、以前の姿には戻らない。それでも帆高は走ります。
この映画を「主人公がわがままを通した話」として切り捨てると、少しもったいない気がします。大事なのは、『天気の子』の世界がそもそも歪んでいることです。大人たちは子どもを十分に保護しない。社会のルールは弱い人に厳しい。天気だけではなく、世界全体がどこかずっと不安定です。
そういう世界で帆高が選んだのは、「正しさ」ではなく「この人だけは手放さない」という意志でした。
これは簡単に肯定できません。でも、簡単に否定もできない。
私が『天気の子』で好きなのは、観終わったあとにモヤモヤが残るところです。「あれは正しかったのか」「帆高の選択を自分は支持できるのか」…答えはすぐに出ない。でも「あの状況で帆高がそう走ってしまう気持ちはわかる」とも思ってしまう。
この割り切れなさこそが、この映画の誠実さだと思っています。帆高の選択を描きながら、その代償もちゃんと残している。肯定しながら、批判的な視点も手放していない。
『天気の子』は、喪失を避ける物語でも、きれいに世界を救う物語でもありません。代償を引き受けてでも、一人を手放さない物語です。
まっすぐさがいいよね。
『すずめの戸締まり』は、帰ってくる物語

『君の名は。』でも『天気の子』でもない、『すずめの戸締まり』だけの場所があります。
それは、もう起きてしまった喪失の中に立つことです。
すずめは幼いころに母を亡くしています。震災で。その喪失は変えられません。過去に戻っても書き換えられない。陽菜を選ぶような形で、何かを取り戻すこともできない。
ただ、扉を閉める。
後ろ戸を閉めるとき、すずめは「そこに確かに日常があった」と認める行為をしています。かつて人が暮らし、笑い声があり、「いってきます」があった場所。その記憶に向き合い、感謝のような気持ちを込めて扉を閉じる。忘れるための行為ではなく、忘れないまま生きていくための行為です。
終盤、すずめは幼い自分と出会います。母を探してさまよう、あの日の自分。そこで現在のすずめが渡すのは、「あなたはちゃんと大きくなる」という言葉です。
過去は変わりません。でも、未来の自分が会いに来てくれる。
三作の中で、この場面が一番静かで、一番長く残りました。奇跡でも、エゴでもなく、ただ「大丈夫だよ」と伝えに行く。
扉を閉めて、もう一度「いってきます」と言える。それだけで十分だと、この映画は静かに言っているように感じます。
「現実と向き合うしかない」っていうのが、新海誠監督のメッセージだと感じました。
こちらの記事で「すずめの戸締まり」をレビューしています
→映画『すずめの戸締まり』感想・考察|あらすじとダイジン・ミミズ・要石の意味
三作で変わったこと、変わらなかったこと
三作を並べると、新海誠作品のある変化が見えます。
一つは、「届かなさ」の相手が変わったことです。
『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』では、届かなさの相手は個人でした。会いたいのに会えない、言いたいのに言えない、時間と距離が二人を隔てる。近年の三作では、その届かなさが個人の恋愛を超えて、災害や社会、喪失の記憶と結びつきます。彗星、異常気象、地震。主人公たちは、個人の感情だけでは太刀打ちできない力を前にして、それでも何かを選ぼうとします。
もう一つは、喪失への態度が深まったことです。

『君の名は。』では、喪失を書き換えることで回避する。
『天気の子』では、喪失の代償を引き受けたうえで選択する。
『すずめの戸締まり』では、喪失をなかったことにせず、抱えたまま前へ進む。
新海誠作品が「奇跡で救う物語」から「失ったものと一緒に生きる物語」へ、一作ごとに深く降りていっているように見えます。
ただ、変わらないものもあります。
どの作品も、主人公は最後にこちら側へ帰ってくる。瀧と三葉は現実の世界で再会する。帆高は、陽菜が戻ってきた変わってしまった世界で生きていく。すずめは東北から帰り、「いってきます」と言う。
異界や非日常へ踏み込みながら、最後には日常へ戻ってくる。踏み込む深さは一作ごとに増しているけれど、帰ってくるという構造は変わっていません。
世界を支えるものが、少しずつ「犠牲」として見えてくる

三作を並べて気になることがもう一つあります。世界が見えない何かによって支えられている、という感覚です。
ただ、この構造は三作で同じ濃さに描かれているわけではありません。少しずつ、はっきりしていきます。
『君の名は。』では、組紐や口噛み酒、宮水家の伝承が、時間と記憶をつなぐ役割を持っています。見えない糸が人と時間をつないでいる、という感覚で、誰か一人が犠牲になって世界を支えるという構造はまだ前面には出ていません。
『天気の子』になると、この構造ははっきり変わります。陽菜は天候の均衡を一人で引き受ける存在になっています。一人の少女が、見えない場所で世界のバランスを背負っている。「世界の安定は誰かの負担の上にある」という構造が、ここで初めて強く見えてきます。
そして『すずめの戸締まり』では、その構造がさらに露わになります。ダイジンが、サダイジンが、草太が、要石として世界の均衡を支える側に置かれる。世界を守るために誰かが石になるという残酷さが、ほとんどそのまま描かれています。
新海誠作品の主人公たちは、その見えない場所で支えている誰かを見つけ、連れ戻そうとします。瀧は三葉を。帆高は陽菜を。すずめは草太を。でも毎回、完全には解決しません。ダイジンは要石に戻ります。陽菜が世界を支える役割から戻ってきたあとも、世界は変わったままです。瀧と三葉も、名前や具体的な記憶を一度失ったまま再会します。
誰かが支えることで世界が保たれている。その重さを完全には消し去らない。この割り切れなさが、三作を通じた新海誠作品の好きなところです。
三作を短く言うなら

観終えて、しばらく経ってから振り返ると、三作はそれぞれ違う問いを残しています。
『君の名は。』は、「それでも届くかもしれない」という問いを残します。
『天気の子』は、「その選択は正しかったのか」という問いを残します。
『すずめの戸締まり』は、「失ったものと、どう生きていくか」という問いを残します。
一言で言うなら、こうです。
- 『君の名は。』は、間に合う物語
- 『天気の子』は、手放さない物語
- 『すずめの戸締まり』は、帰ってくる物語
三作を通して新海誠監督が描いてきたのは、届かなさを抱えた人間が、それでも誰かのために走ろうとする姿です。奇跡の形は変わった。でも、その走り方の誠実さは変わっていない。
そう思うと、三作はやっぱりつながっています。
参考サイト
映画『君の名は。』公式サイト
https://www.kiminona.com/
映画『天気の子』公式サイト
https://tenkinoko.com/
映画『すずめの戸締まり』公式サイト
https://suzume-tojimari-movie.jp/


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