映画『すずめの戸締まり』ゆるっと解説:つらい過去と向き合って、一歩踏み出す“戸締まり”の物語やで

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『君の名は』も『天気の子』もあんまり好みではないのですが、U-NEXTにて新海誠監督の『すずめの戸締まり』を観ました。

過去2作品と似た感じの映画だったのですが、やっぱりちょっと分かりづらいと思ったので、鑑賞後にいろいろと調べたのでブログにてまとめていきます!

サクッと読める簡易版(前半)と、「ちょいマニアなとこも掘り下げたいわ」って人向けの詳細版(後半)の二部構成でいこうと思うで。 できるだけ、難しなりすぎんように関西弁で噛み砕いてお届けするわ!

※この記事はネタバレ含むから、まだ観てない人は映画見てから戻ってきてな!

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◆ 映画『すずめの戸締まり』サクッと分かる簡易版 ◆

どんな映画?

新海誠監督(『君の名は。』『天気の子』)の最新作。2022年11月公開、国内興行はおおむね147〜149億円(東宝発表ベース)をたたき出した大ヒット作やね。ジャンルは”日本縦断ロードムービー×災厄ファンタジー×青春ラブ”。

この映画、ただのアニメやないねん。「過去の傷と向き合って、また一歩踏み出す」というテーマを、日本中を旅しながら描いた感動作や。

それと過去2作品の『君の名は』と『天気の子』とは違う描写もあるので、監督の新たな境地を感じさせる、鎮魂と希望の物語でもあるで。

ざっくりストーリー

九州の田舎町に住む17歳の女の子・岩戸鈴芽(すずめ)は、ある日、「扉を探してる」と言うイケメン大学生・宗像草太と出会う。草太は「閉じ師」って役割で、廃墟に現れる「後ろ戸」を閉めて、地震の原因となる「ミミズ」って災いを封じる仕事をしてるんや。

でも、すずめがうっかり要石を抜いたせいで、猫の姿の神様・ダイジンが目覚めて、草太は3本脚の椅子に変身してもうた!しかも、このダイジン、最初はなんやねんコイツって感じやけど、実は孤独で愛されたかった存在やったんかもしれん。

2人と1匹は日本中を旅しながら扉を”戸締まり”して回るけど、その過程で、すずめは小さい頃に震災で亡くしたお母さんとの記憶や、心の痛みとも向き合うことになるんよ。

テーマはなんやろ?

これはな、ただの災害を防ぐ冒険ちゃうねん。

  • 「大事なのに閉じ込めてた気持ち」
  • 「忘れたくない日常や思い出、そして失われた場所への鎮魂」
  • 「どんな時でも前に進む勇気と、未来への希望」

これらを「戸締まり」って行為で象徴的に表現してる。震災の記憶や個人の成長が絡み合って、めっちゃ深い話になってるで。

スゴいポイント3行まとめ!

  • 映像がキレイすぎる:廃墟も空もリアルで感動的。緻密な描写に目を奪われるで。
  • 日本縦断ロードムービー:九州から東北まで、風景や文化の違いを味わう旅情たっぷり。
  • メッセージ性:「あの震災を忘れんといて」「日常が宝物やで」って心に響く。シリアスなのにポップな要素もあって楽しめる!

「めっちゃ面白そう!」って思ったら、ここでいったん映画を観てから戻ってきてもええで!


◆ 後半:映画『すずめの戸締まり』もっと知りたい人向け詳細版 ◆

1.物語をもっと詳しく

プロローグ(九州・宮崎)

鈴芽は母を亡くし、叔母の環(たまき)に育てられている。ある朝「扉を探してる」という草太に出会い、廃業リゾートの廃墟へ。扉の向こう側には星が渦巻く異界〈常世〉。ここで鈴芽は要石を引き抜きダイジン誕生。草太は椅子に変身してしまう。この椅子姿の草太がまた、三本足でコミカルに動くし、声(松村北斗さん)も相まって、人間時より魅力的やったって人もおるんちゃうか?

列島横断ロード

  • 九州(宮崎)……最初の後ろ戸。閉じ師の仕事を知る。
  • 愛媛(八幡浜)……フェリー娘・千果と出会う。みかん畑の上空にミミズ!(この出会いとか、旅先での人々の温かさが、重いテーマを扱いながらも物語に光をくれるんよな。)
  • 兵庫(神戸)……スナック女将・ルミと閉じ師コンビ結成。
  • 東京(代官山)……草太の実家。”閉じ師”の祖父が伏線に。サダイジン出現。
  • 宮城(石巻近郊)……東日本大震災の被災跡地。”最後の後ろ戸”。

クライマックス

草太は要石の代わりになり地中へ。鈴芽は常世に飛び込み幼少の自分へ声かけ。「生きててええんやで」と自己肯定を手渡し、草太を椅子から人間へ戻す。2本の要石が揃いミミズを再杭打ち。ダイジンは「ありがと」と去りエンドロールへ。

2.キャラクターと世界観

  • すずめ:明るい高校生やけど、幼い頃に震災でママを亡くして、心の奥に傷を抱えてる。旅を通じてその痛みと和解していく。行動力と優しさが魅力や。
  • 草太:「閉じ師」の家系出身の青年。真面目で責任感強いけど、すずめと出会って自分を犠牲にする生き方を見直すきっかけに。ただ、彼自身の背景とか葛藤はもうちょい掘り下げてほしかった気もするな。椅子になってた時間が長かったししゃーないか。
  • ダイジン(猫):要石の神様で、いたずら好き。すずめに甘えたい気持ちと神としての使命が混ざった複雑な存在。「すずめの子になる」って言葉が切ない。彼もまた、人間の身勝手さの犠牲者であり、要石としての孤独から解放されたかったんやろな。
  • 椅子:すずめのママが作った3本脚の思い出の椅子。草太が変身して喋ることで、すずめの過去と現在が繋がる大事なアイテム。
  • 後ろ戸:「後ろ戸」は廃墟に現れる、現世(生きてる世界)と常世(死や神の世界)を分ける扉。いわば境界線(結界)のような役割を持っている。忘れ去られた場所、人々の記憶、そして災害によって失われた日常への鎮魂と祈りの象徴でもあるんや。
  • ミミズ:後ろ戸から出てこようとする赤い大蛇(地震の象徴)。日本神話の「黄泉比良坂」(生と死の境界)みたいなモチーフが隠れてるで。
    そしてな、もしかしたらこの映画『すずめの戸締まり』自体が、ある意味ミミズみたいな役割を果たしたんちゃうかって思うねん。普段は心の奥底に眠ってる震災の記憶や感情を、この映画が掘り起こして、ワシら観客にもういっぺん向き合わせてくれたんとちゃうかな。ミミズが地下から現れるように、忘れかけてた記憶や痛みが、この映画をきっかけに蘇った人もおるんちゃうやろか。

3.「戸締まり」の本当の意味

この映画の”戸締まり”は、ただ物理的に扉を閉めることだけを意味してへん。心の整理のメタファーやねん。

  • 廃墟は「忘れられた日常」や「誰かの思い出」を象徴してる
  • すずめは扉を閉めるたび、母の死や震災のトラウマを受け入れて、少しずつ大人になっていく
  • 「閉じる→受け入れる→生きる」ってサイクルが、映画の核やで

つまり”戸締まり”って「強がって心に閉じ込めた気持ち」と、勇気出してちゃんと”さよなら”することでもある。

経験あると思うけど、忘れようとしていた嫌だったり悲しい気持ちが突然出てきそうな時ってあるやん?その気持ちとちゃんと向き合わないと、結局忘れられないやん?忘れようとしてもまた出てこようとするやん?気持ちとちゃんとさよならすることって大事なんやな。そしてそれが今を生きていくことにつながっていくんやな。

  • すずめはずっと封印してた幼い自分、泣き虫やった過去とも和解する
  • 草太は人のために自分を犠牲にしようとしてたけど、すずめの「生きたい!」って気持ちで大きく変わっていく

4.ダイジンは何がしたかったのか?

ダイジンって、ただのイタズラ好きの猫ちゃうかったんやで。あの猫の行動、めっちゃ複雑な気持ちの葛藤があったんや。ちょっと掘り下げてみよか。

要石として生きてきた孤独と解放

まず知っておきたいのは、ダイジンは西日本を守る「要石」として何百年も災いを封じてきた存在やねん。ずーっと孤独やったわけや。せやけど、すずめが要石を引き抜いた瞬間に「自由」を手に入れて、めっちゃ嬉しかったんや。

「永遠の孤独からの解放」を得たダイジンは、すずめに感謝しつつ、新しい生活への期待でいっぱいになった。でもな、草太に要石の役割を押し付けたんは、「なんで自分だけがずっと犠牲やねん、不公平やろ!」っていう気持ちもあったんやろな。

「家族になりたい」という切実な願い

ダイジンが一番望んでたんは、実はめっちゃシンプルなことやったんや。「すずめの家族になりたい」、それだけやねん。何百年も孤独やったんやから、その気持ちも強かったやろうな。

すずめに「うちの子になる?」って聞かれて「なる」言うたのは、ただ飼い猫になりたいだけやない。「血の繋がりがなくても家族になりたい」っていう深い願望があったんや。神様やけど、普通に「愛されたい」って思ってたんやな。

昔は人間やった可能性もあって、「人柱」みたいな存在から解放されて、普通の猫として生きたかったんやろな。すずめとの生活を通じて「普通の幸せ」を感じたかったんや。

気持ちが変わっていくプロセス

映画の中でダイジンの気持ちはどんどん変わっていくねん。

最初は「自由が欲しい」→「草太に役割押し付けよ」→「すずめの犠牲精神に触れる」→「責任を受け入れる」

特にすずめが「私が要石になる」って覚悟決めた瞬間、ダイジンの中で何かが変わったんや。すずめがそこまで草太を救おうとする姿を見て、「すずめは自分よりも草太を大切にしてる」って悟ったんやな。

それに、すずめを本当に大切に思うからこそ、「孤独でつらい要石の役目を大好きなすずめに背負わせたくない」って気持ちも芽生えてきた。すずめへの愛情が、ダイジンを「自分から要石に戻る」決断に導いたんや。

でもな、一番大事なのは、最後にダイジンが要石に戻る決断をした時、「家族になること」と「使命を果たすこと」が同じ意味になったってことやねん。自ら要石になることで、すずめが大切にする世界を守る——それこそが、本当の「家族としての役割」やと気づいたんや。

ダイジンから学べること

ダイジンの物語は、「自由と責任」「個人の欲望と社会的使命」の間で揺れ動く、人間の普遍的な葛藤を表してるんやな。結局のところ、「愛する人を守るためなら自己犠牲も厭わない」という究極の愛情表現に行き着くねん。

最初はちょっとワガママやったダイジンが、すずめの強い覚悟と行動に触れて、「本当に大切な人のために自分にできること」を見つけた——それが、この物語の隠れた感動ポイントやったんちゃうかな。

「すずめの子にはなれなかった」けど、「すずめを守る存在」にはなれた。それもまた、家族の形の一つやねんな。

5.キーワード徹底解剖

(1) 後ろ戸

  • 廃墟にしか現れへん=誰かが「去ってしもた」「記憶から消えそう」な、日常の場や思い出の象徴
  • 現世と常世を分かつ門。人の営みが途絶えた場所に現れる
  • メタファー:忘却された記憶・心の痛み・公共空間の喪失
  • 神話的対応:黄泉比良坂、賽の河原など「境界の坂/門」

(2) ミミズ

  • 地震エネルギーを具象化した赤い大蛇
  • 常世から現世に溢れてくる災厄そのもの(地震・社会的トラウマ)
  • 常世と現世の境界がやぶれると暴れ出す
  • すずめが立ち向かうのは、「忘れたいのに忘れられへん痛み」と向き合うこと
  • そして、この映画を観ることで、ワシらの心の中の「ミミズ」(震災の記憶、それによって生まれた感情、未解決の問い)が刺激されて、意識の表面に引きずり出されたかもしれへん。この映画自体が、ある種の「ミミズ」やったとも言えるんちゃうかな。

(3) 要石(ダイジン&サダイジン)

  • “釘”としてミミズを固定。片側が抜けるとバランス崩壊
  • 2つの要石が揃って初めて、世界の均衡が保たれる

(4) 椅子

  • すずめがママと一緒に作った、脚の1本ない思い出の椅子
  • 草太が変身して喋り出すことで、鈴芽の”母の記憶/現在の恋/子ども時代”が物理的に重なる仕掛け

(5) 閉じ師

  • 日本神話の「国堅め」と、防災インフラのメタ混合
  • “日々社会を支える無名の人々”への賛歌、と監督は語っている

6.裏テーマ&深い考察

喪失と再生

鈴芽は「母の死」「震災」「自分だけ生き残った罪悪感」を抱え、心の奥を凍結していた。後ろ戸の旅=その封じた感情を1枚ずつ”戸締まり”して再構築するプロセス。

これはまさに、震災で深い傷を負った人々、そして社会全体の「再生」への祈りでもあるんや。

個人と社会の記憶

廃墟は個人の思い出であると同時に、過疎・産業衰退・震災といった社会課題の現場。鈴芽が祝詞を唱えるたび「ここで暮らしてた誰かの日常」を呼び戻し、忘却を拒む。

境界を守るということ

  • 境界(後ろ戸)があることで「生と死」「記憶と忘却」がバランスとれてる
  • 人がいなくなった場所、想いが途切れた場所で境界が弱って、常世(=忘れ・災厄)が現世に襲いくる
  • 常世(死者/記憶)を排除するのではなく、現世と”補完し合う”距離感を保つのが閉じ師の仕事

7.震災・社会とのリンク

この映画は2011年の東日本大震災の影響・記憶を強く意識してる。(映画は直接的に”震災”と断定はせぇへんけど、描写や演出から間違いなくそれを連想する作り。)

  • 防災の日の日常描写、被災地の情景——「今も痛みは残っとる」「ほんまはみんな忘れたらあかん」
  • すずめがお母さんを亡くした”あの日”と、自分自身との対面は、日本社会がずっと引きずる痛みの象徴
  • 映画は直接的に”震災”と断定はせぇへんけど、描写や演出から間違いなくそれを連想する作り

8.この映画が教えてくれること

『すずめの戸締まり』は

  • “開く”よりも”閉じる”
  • “始まり”よりも”後始末”
  • “忘却”よりも”記憶のケア”

を主題に据え、震災後の日本社会をやさしく、でも逃げずに射抜いた作品やった。

  • 過去の傷を抱えたままでも、新しい一歩を踏み出す強さ。
  • 忘れられかけた場所や人や思い出にも、もう一回「ありがとう」と「さよなら」を言える勇気。
  • 普段は無関心なことも、「実はめちゃ大事なんやで」って教えてくれる優しさ。
  • 観る人一人ひとりが「喪失」とどう向き合い、未来へどう歩み出すのかを問いかけてくる。
  • そして、どんな状況でも「大丈夫、未来はある」と語りかけてくれるような温かさに満ちてる。

9.まとめ:心に残る現代の寓話

『すずめの戸締まり』はただのアニメやない。”生きること”と”失うこと”の間に立ち、「傷も過去も受け入れて、それでも進むやで」と背中を押してくれる、現代日本のめちゃくちゃ大きな寓話(おとぎ話)やと思うわ。

ロードムービーとしてのワクワク感、深い考察の余地、震災後の日本へのメッセージ——全部詰まってる。観た後、自分の「後ろ戸」をそっと閉めて、また明日を生きようって思える映画やで。

「廃墟の向こうにあるのは、終わりじゃなく次の朝やで」——このメッセージが胸に響いた人は、旅の途中で見つけた”自分だけの後ろ戸”をそっと戸締まりして、また今日を生きてみよか。

グッときた人、自分なりに色んな痛みや記憶を重ねて「観て感じて考える」——それが正解かな、って思うで!


【主要参考・引用】

  • https://suzume-tojimari-movie.jp
  • https://febri.jp/topics/suzume-tojimari1/
  • https://web-mu.jp/column/9935/
  • Wikipedia「すずめの戸締まり」
  • https://www.cinra.net/article/202212-suzumetojimari_kawrkcl
  • Amazonレビュー等

番外編:新海誠「災厄三部作」比較

最後に番外編として、新海誠監督の「災厄三部作」として見た『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』の進化と変遷を掘り下げてみましょか。特に『すずめの戸締まり』がこの三部作でどんな位置づけになるのでしょうか!

1. 三部作を貫く構造:「災厄×青春×ファンタジー」の進化

基本構造の共通点

どの作品も「10代の主人公が超常現象と出会い、災害と向き合う」という構図を持ちますが、そのアプローチは微妙に変化しています:

『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』
主人公瀧&三葉(協働)帆高(単独視点)すずめ(単独視点)
災厄彗星落下(天災)異常豪雨(環境問題)地震(日本の宿命)
対応法過去を変える受け入れて共存封じ込めて継承
象徴赤い紐(結び)晴れ女(選択)椅子(忘却と記憶)

災厄の「足もと化」現象

三作品で災害の性質がどんどん身近になっていくのが面白いとこですわ:

  • 『君の名は。』→ 彗星(宇宙からの偶発的脅威)
  • 『天気の子』→ 異常気象(人間活動も関わる環境問題)
  • 『すずめ』→ 地震(日本列島に宿命的に根付くもの)

これは新海監督が「災厄から逃げられない現実」をより直視するようになった証拠やないでしょうか。特に『すずめ』では東日本大震災を明確なモチーフにして、社会が「見たくないものを見る勇気」を問うています。

  • 三部作に共通するテーマの変遷
    監督はこれらの作品を通して、いくつかの共通したテーマを描いてるけど、その描き方も進化してるように思うねん。
    • 自然の圧倒的な力と、その美しさと恐ろしさ:どの作品でも自然は美しくも恐ろしい存在として描かれてるけど、『すずめ』では地震という、より抗いようのない、日本の風土に根ざした脅威として描かれてる。
    • 喪失と再生、そして希望:災害による喪失は共通やけど、『すずめ』では過去のトラウマと直接向き合い、それを乗り越えて未来へ進む「再生」の物語がより色濃く描かれてる。
    • 日常の尊さと、非日常との境界線:非日常を経験することで日常の価値に気づかされるのは同じやけど、『すずめ』では「戸締まり」を通して、失われた日常や場所への鎮魂という側面が加わってる。
    • 個人の選択と世界の運命:個人の選択が世界に影響を与える構図は変わらんけど、『すずめ』では個人のトラウマ克服が世界の危機を救うという、より内面的な部分と世界の運命がリンクしてる。
    • 記憶と鎮魂、そして継承:『君の名は。』では記憶を取り戻す物語、『天気の子』では選択の記憶を抱えて生きる物語やったけど、『すずめ』では忘れ去られた記憶を「戸締まり」で鎮め、未来へ継承していく物語へと深化してる。

2. 「個人の選択」と「社会の責任」の揺れ動き

三部作の主人公たちの選択を比較すると、興味深い展開が見えてきます:

「君の名は。」:奇跡による両立

瀧と三葉は愛(再会)と公共(町の救済)を「奇跡」によって両立させました。つまり「何も諦めなくてええ世界」を描いた。

「天気の子」:個人優先の選択

帆高は「陽菜のいる世界」を選び、東京の水没という代償を受け入れる。つまり「社会よりも大切な個人」を描いた。

「すずめの戸締まり」:折衷案の提示

すずめは「災害封印(社会的責任)」を果たしながらも、「草太(個人的愛)」も諦めへん。つまり「社会も個人も両方大事」という現実的な答えを提示した。

言うなれば、『すずめ』は『君の名は。』の「奇跡による解決」と『天気の子』の「エゴイスティックな選択」の両極端から、より現実的な「痛みを抱えながらも両方を守る道」を見出したんやねん。

3. 「喪失」への態度の深化

三部作を通じて、「喪失」へのアプローチが深まっていきます:

  • 『君の名は。』:喪失を書き換える(過去改変で回避)
  • 『天気の子』:喪失を選択する(代償として受け入れる)
  • 『すずめ』:喪失と共に生きる(閉じ込めて、でも忘れへん)

『すずめの戸締まり』の成熟は、「すべての痛みを消し去れるわけやない、けど受け入れて生きていける」という、震災後の日本社会への実質的なメッセージにあります。

4. 「扉」の象徴性の進化

「扉」や「境界」のモチーフは三作品を通じて存在しますが、『すずめ』では主題として昇華されています:

  1. 物理的な「後ろ戸」:災害の侵入口
  2. 心理的な「心の扉」:喪失の記憶を封じ込める場所
  3. 社会的な「忘却の扉」:社会が見ないふりをする廃墟

『すずめ』の「戸締まり」は単なる封印やなく、「きちんと向き合って整理する」という積極的な行為です。「閉じる」ことは「終わり」やなく、「次の日常のための準備」なんや。

5. 世界観の連携と時間軸

三作品は別々の物語でありながら、明確に同一世界線上にあります:

  • 『君の名は。』の瀧と三葉が『天気の子』でカメオ出演
  • 『天気の子』の帆高と陽菜が『すずめ』で渋谷で目撃される
  • 時間軸は『君の名は。』→『天気の子』→『すずめ』の順に約3年おき

これにより「同一世界で災害が連鎖し、そのたび若者が向き合う」というシリーズ的一貫性が強化されています。災害の度合いも”隕石→水没→地震”とエスカレートしていくのも興味深いポイントです。

6. 「受け継ぐこと」の重要性

『すずめの戸締まり』が三部作の到達点として特に光るのは、「災厄は止められへんけど、それと向き合う術は受け継げる」というメッセージです。

すずめと草太から持丸と沙弥香へ、そして観客である私たちへと「戸締まり」の技術が継承されていく構図は、「喪失の記憶を風化させへん」という意思の表れやと思います。

7. まとめ:閉じるための物語

新海誠は「遠くの誰かを想う物語(秒速5センチメートル)→出会って書き換える物語(君の名は。)→選択の責任(天気の子)」と来て、最後に『すずめ』で「喪失を抱えながら次世代へ手渡す物語」を完成させました。

『すずめの戸締まり』のメッセージは単純やない:

  • 災害は止まらん
  • 喪失は完全に癒えへん
  • それでも「閉じて、整えて、次の日を迎える」

これこそが「戸締まり」の哲学であり、三作品を貫く「誰かを想う力」をより地に足のついた形で結晶させた姿なんです。

「戸締まり」は終わりやなく、新しい明日への準備なんや。新海誠監督は三作品を通じて、日本社会に「喪失を受け入れつつ、それでも前に歩む勇気」を問いかけてくれたんやと思います。

8.追記:ちょいと深掘り:キャラクター描写の変化に見る監督の想い

ここでもう一つ、三部作を通して見ると「おや?」と思う変化があんねん。それはな、女性キャラクターの描き方、特に身体的な部分の強調表現についてや。

『君の名は。』の三葉が入れ替わった時に胸を揉むシーンとか、『天気の子』の陽菜ちゃんの服装や一部のアングルとか、「おっ?」ってなる描写がチラホラあったやん? 思春期の少年少女の物語やし、ある種の「記号」として使われてた部分もあったんかもしれん。

せやけど、『すずめの戸締まり』では、そういう露骨な身体的特徴の強調って、ほとんど見られへんかったと思わへん? すずめは活発な女子高生やけど、そういう視線はグッと抑えられてる感じがしたわ。

これ、なんでやろな? ワイなりに考えてみたんやけど、いくつかの理由がありそうや。

  • お話のテーマがめっちゃシリアスやから
    『すずめ』の核にあるんは、やっぱり東日本大震災の記憶と、そこからの再生やんか。こんなにも重くてデリケートなテーマを扱う上で、登場人物(特に主人公)の身体を不必要に性的に見せるような描写は、物語のメッセージをぼやかしてしまう可能性がある。監督もそこはめっちゃ慎重になったんちゃうかな。
  • すずめっていうキャラクターの魅力の描き方
    すずめの魅力って、困難に立ち向かう行動力とか、心の奥底にある優しさとか、過去の傷と向き合おうとする強さにあると思うねん。そういう内面的な部分をしっかりと描くことに集中した結果、外面的な部分の過度な強調は必要ないと判断されたんかもしれん。
  • 世の中の「目」も変わってきたから
    最近は、アニメや漫画でも女性キャラクターの描き方について、「それって大丈夫なん?」って声が上がりやすくなってるやん? 作り手側も、そういう社会の意識の変化には敏感になってるはずや。特に多くの人が見る大作映画やし、より多くの人に作品の本質を受け取ってもらえるように、配慮した部分もあるんちゃうかな。
  • 監督自身の表現の成熟かも
    新海監督も作品を重ねるごとに、表現したいことやその手法が変化・深化していくのは自然なことやと思うねん。物語の核心を伝えるために、よりストレートな表現を選んだ結果、過去作にあったような描写が削ぎ落とされたとも考えられるわ。

こうやって見てみると、『すずめの戸締まり』で身体的な強調描写が抑えられたんは、作品が持つテーマ性と、それに対する監督の真摯な向き合い方の表れなんやないかなって思うねん。

震災っていう現実の大きな悲しみと向き合う物語やからこそ、余計なノイズになりかねへん表現は避けて、観客が物語そのものに深く没入できるようにっていう、監督の強い意志と配慮を感じるわ。これもまた、三部作を通して見た時の、新海監督の作家性の一つの変化・進化と言えるんちゃうやろか。

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