「正義とは?」
たぶん誰もが一度は考えたことがあるはずだ。しかし答えを出すのは難しい。大人になればなるほど難しい。世の中はそう簡単に『善悪』で分けることはできないのだ。
正義については、2500年前から哲学者たちが考えている。しかし、いまだに答えは出ていない。だから凡庸な僕たちが数時間考えたところで、答えなんて出るわけがない。まずはこの本を読んで、正義に関する知識の材料を手に入れようではないか。
『正義の教室』の内容は、主人公の正義(まさよし)が倫理の先生とともに、『正義』について勉強していくストーリーとなっている。『正義について今まで考えられてきたこと』が、具体的に分かる。特筆すべきところは『圧倒的な読みやすさ』だ。サンデル大先生の『これから正義の話をしよう』で絶望した人は、この本をぜひ手にとってもらいたい。
人によって「これが正義だ!」と判断する基準は異なる。大きく分けると3つだ。
- 平等→みんな平等だよ!
- 自由→他人の自由を奪わない限り、自由にしてよし!
- 宗教→良心に従えば正しいことなんて分かるよ!
の3つである。
とりあえず、平等について考えてみよう。何かを判断する時、どうすれば『平等』を実現できるだろうか。多数決?6:4で、6側が多数決で勝利したとしよう。そうすると、残りの4割の意見は無視されてしまう。それが平等と言えるのであろうか。多数決は、少数派への不当な暴力を正当化したものになる可能性がある。
次に自由を考えてみよう。「他人の自由を侵害しない限り、自由にやってよし」というのが「自由こそが正義だ!」と考える人たちのスタンスである。では、自分自身が麻薬を摂取し続ける自由もあるのだろうか?もちろんある。しかし自由を追求すると、必然的に向かう先は『自己責任論』だ。それは本当に正義なのだろうか。
最後に宗教について考えてみよう。「理屈で考えなくても、それが正しいことか正しくないことかなんて、心で分かるでしょ」というのが、宗教で判断する人たちのスタンスだ。小学校の先生たちがよく使う言葉である。もっともらしく聞こえる。しかし悲しいことに、悪人よりも、「これが正しい!」と心で感じ取った人たちが、正しさの理想を掲げて万単位で人を虐殺してきたのだ。「心で判断しようぜ!」って怖い。
哲学者たちが2500年の間、正義について答えを出せなかった理由が分かる。「正義なんて人それぞれ」と言いたくなってしまう。でもそんなことで片付けてしまっていいのだろうか?ダメだ。基本的に、人は「自分が間違っている」なんて思わない。自分は善人で、正しいことをしていると思っている。「人それぞれ」で片付けてしまうと、『人それぞれが正しいと思い行動すること』を肯定してしまうことになる。それはそれは恐ろしい世界だ。答えが出ない問題でも、挑み続けていかなければならない理由がここにある。
ちなみに、この本の主人公の正義(まさよし)は、本の最後で正義についてこう語っている。
万人に見られていなかったとしても、もしくは見られていたとしても、それに関わりなく自分がやるべきだと思ったことが、自分にとっての善いことである。p335
「自分がやるべきだと思ったことが、自分にとって善いことである」。恐ろしい言葉ではないだろうか?さらにこのようにも言っている。
正義とは何か?善いとは何か?やはり僕にはわからない。でも、それは固定化された、いつでも、どこでも、誰にでも通じる、普遍的な善や正義が僕にはわからないという話であって、「今この瞬間、僕が正しいと思うもの、善いと思うもの」は確実に存在する。p348
正義(まさよし)にとって、これは考えた上での結論なのだが、結局のところこれは「オレのやってることは善だよ☆」と言っているにすぎない。正義について勉強する前と、ほとんど変わらない。むしろ「結局、正義については考えても分からねーぜ」という知識が増えた分、やっかいかもしれない。
著者は、なぜこのような結論を最後に持ってきたのであろうか。たぶん、「正義(まさよし)を反面教師にしろよ!」ということなのだと思う。正義については、ちょこっと勉強したくらいで答えが出るような問題ではない。繰り返しになるが、哲学者たちが2500年かけても分からなかった問題だ。当然ながら、著者も答えを出せてはいない。つまり、「『正義の教室』を読んだところで、正義について分かるわけがないのだから、正義(まさよし)みたいに安易に結論を出すんじゃねーぞ」と言いたかったのだと思う。なぜそんな回りくどい方法をとったのかというと、正義(まさよし)の恐ろしさを強調したかったのではないだろうか。「考えても分からねーもんは分からねーんだから、その場の気分に合わせて自分が善だと思うことを信じて行動していこうぜ!」という人の恐ろしさを、伝えたかったのだと思う。
じゃあ僕たちはどうしたらいいのか。正義に対してどう向き合っていけばいいのか。哲学者のキルケゴールはこのように言っている。
「人間は、有限で不完全な存在であるのだから、無限に正しい善、完全な正義がどんなものか知ることはできないし、実行することもできない。そのため、人間は絶望するしかない。」
たぶん僕たちはいったん絶望するべきなのだ。そして絶望から出発して、分からないものは分からないということを受け入れ、しかし分からないことを探求する努力を惜しまず、生きていくしかないのである。めんどくさい・・・。なんてめんどくさい生き方なのであろうか・・・。でも、そんなめんどくさいやつが僕は好きだ。さぁ『正義の教室』を読もう!
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