宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』を読みましたので、感想をば。
私、昔っからアイドルファンのことを理解できませんでした。大学生の頃、AKBなるものが流行り始め、CD付属の投票券を得るためにCDを何枚も買う人が出てきていました。
私は内心「なんでそんなのするの?お金も勿体無いし、CD大量に買って投票券だけ取って残りのCDを捨てるのは環境に悪くね?」と、アイドルファンのことを言ってみれば「頭おかしーやつら」と思っていました。
アイドルファンに「なんでそこまでするの?」と聞いても、まともな答えは返ってきません。「応援してるから」くらいのもんです。まぁ言語化するのは難しいですわな。
だからずーーーっとアイドルファンに疑問を持っていたのです。誰かアイドルファンの心理を言語化してくれる人はいないのか!?
いました。でてきました。宇佐美りんさんです。
世間一般的に言われる『できない人』は共感する本
読んでみての感想は、終始「ふーん」くらいでした。特に「わー、おもしれー!」みたいなことはありませんでした。まぁそんなおもしろさを芥川賞に選ばれた本に期待していませんでしたけれど。
でも読み終えて、なぜこの本が受け入れられているのかがなんとなく分かりました。今の若者の苦悩を表しているのです。
主人公の女の子は、世間一般でいう『できないやつ』です。
- 勉強できない
- 人とのコミュニケーションができない
そんな学生です。
具体的な病名は出ていませんでしたが、病院に行ったら2つほどの診断名がつくような女性です。発達障害なのか適応障害なのか、たぶんそういう障害系の病気なはずです。
診断名はつけられてないけど、この主人公と同じような状態の人って多いと思うんです。勉強できないし、コミュニケーションもできないっていう人ね。(『ケーキの切れない非行少年たち』という本にも、「そういう人って多いよ」みたいなことが書かれておりました)
学生時代は、勉強、運動、コミュ力で『人間レベル』が計測されます。勉強ができれば「ワイは勉強ができる人間!」と思えますし、運動ができれば「ワイは勉強はできないけど運動はできる人間!」と思えます。コミュ力も同様です。
ではそれら3つがどれもできない場合は、どうやって『ワイは〇〇な人間』と思えばいいのでしょうか?学校という小さな世界では、それがなかなか見つけづらいんです。勉強、運動、コミュ力の評価軸しかなければ自分のアイデンティティは見つけづらいため、『自分』という人間の存在が宙ぶらりんとしているから苦しかったりします。
また、たとえ見つけたとしても、見つけたものが世間に受け入れられてないものであれば、「は?そんなのできてなんなの?キモイ」とか思われちゃいもします。私の時代はゲームがそうでした。「ゲームが得意!」というのはオタクで気持ち悪がられていました。今のように『職業ゲーマー』がある時代とは全然違います。
時代の価値観に適合していなければ、自分が好きでも周りからは受け入れられないのです。結局、学生時代の間は、勉強、運動、コミュ力で、『その人の存在価値』が計測されちゃうわけですな。
自分の存在を確かめたくアイドルを追っかける
この本の主人公は、アイドルを追っかけすることで自分の存在を感じるようになっています。(主人公は勉強などに早々に見切りをつけています。それが母親や姉のストレスになっていたりもしますが。)
この本を読むと分かるのですが、何度も『存在』という言葉が出てきます。
推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。
中略
その存在を確かに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした。p109
この本を読んで、『アイドルを追っかける人』のことがなんとなく分かりました。アイドルを追っかけているという背景には、自分の存在を追っかけている、というのがあるのかなと。
実存哲学の匂いがする小説なのです。
アイドルが人になった時
この本の終盤では主人公が推しているアイドルが引退を発表し、一般人になります。
「推しは人になった」
この文章を読んだ時、私は90歳を超えている祖母を思い出しました。
90歳を超えていると言う事は、戦争を経験した世代ということです。私の祖母は、第二次世界大戦中の日本で、10代を過ごしていました。
祖母は、「天皇が人になった」、瞬間を生きていたのです。
戦前、日本人は戦争に負けることなど考えていませんでした。なぜかというと天皇がいたからです。天皇は「現人神」と考えられていました。ようは、人の形をした神様です。
「神がついているのだから戦争は負けるはずがない。神風は必ず吹く。」
祖母も実際に「戦争に負けるはずがない」と思っていたそうです。
しかし、負けた。そして戦後、天皇は『普通の人』だということがメディアから伝えられます。祖母に限らず、当時の人たちは衝撃を受けたことでしょう。スマホがあり、ネットがある時代を生きる私たちには想像もできないことですが、天皇は神様から人になったのでした。
祖母にとって天皇が絶対的な価値だったように、この主人公にとっては推しが絶対的な価値でした。しかし、どちらも絶対的と思われていた価値がなくなりました。それらを信じていた間は、生き続けることができた。でも、その指針を失ってしまいました。
さて、これからはどうやって生きていけばいいのでしょうか…?
このような話はニーチェ大先生が言っております。ニーチェの有名な言葉に「神は死んだ」がありますが、まさに祖母や主人公が経験してきたことを、ニーチェ大先生は200年以上も前から言っているのです。
私たちは常に『絶対的に信じたいもの』を探しています。それがキリスト教だったり、天皇だったりです。
ですがキリスト教や天皇は、科学技術の発達により、「え?神とかいなくね?」ってのが民衆が認知し始めたので、死んでしまいました。
でも私たち人間は『新たなキリスト教』をすぐに持ち出してしまいます。なぜ持ち出すのかというと、『絶対的なものを信じたいから』です。だってそんなものがないと『生きる意味』が分からなくなってしまいますからね。なにかにすがりたくなっちゃうんです。
戦後、あらたな神様として持ち出されたものの1つが『経済成長』でした。「日本はNo.1!!!」と言って、日本の発展を信じて日本人は働き続けました。でも経済成長は止まりました。新しく持ち出された『経済発展の神様』も死んでいました。
個人で考えると、新たに持ち出された神様に『勉強して、いい大学入って、大企業に入って、結婚して、マイホーム買って、子ども産んで、年金もらって』みたいなものがあります。
でも人は年齢が重なるにつれて、神がどんどん死んでいくことに気がつかされます。
- え?いい大学入ったけど、あんまり幸せじゃないぞ
- え?大企業に入ったけど、あんまり幸せじゃないぞ。なんなら早期退職とかあるし?え?大企業は安定なんじゃないの?
- え?結婚したけど、あんまり幸せじゃないぞ。なんか喧嘩ばっかりしてるし。
- え?マイホーム買ったけど、あんまり幸せじゃないぞ。ローンも返さなきゃ。
- え?子どもつくったけど、あんまり幸せじゃないぞ。子どもが小さいときは良かったけれど、最近は目も合わしてくれないし…
形を変えたキリスト教は至るところで登場しては消えていきます。私たちが「〇〇をしたら幸せだ」と感じるものは、たぶん形を変えたキリスト教です。〇〇できたとしても、それは永続的には続きません。すぐまた次に必要な〇〇が必要になってしまいます。
じゃ、どうしたらいいの?
ってな話ですが、これに答えるのは難しいです。ニーチェ大先生や、ショーペンハウアー大先生は「芸術をやれ!」みたいなことを言っております。参考までに。
で、主人公はというと、
前略
這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。p125
みたいなことを言ってます。やっぱり生きるって難しいんですわ。
なにかを信じて生きていきたい。でも信じているものはいつか崩れ去ります。信じていたものが崩れ去った時、どうしたらいいの?…そんな考えを、現代風に描いたのが『推し、燃ゆ』なんじゃないかなーと。希望なき現代を生きる私たちに響く一冊なのかと思います。参考までに。それでは!
読書メモとして簡単に動画にしています↓↓↓
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