映画『ハンナ・アーレント』を観ました。
ハンナ・アーレントはドイツ出身の哲学者・思想家です。
ホロコーストに関与し、数百万人のユダヤ人を強制収容所への移送する指揮をとったアドルフ・アイヒマンの裁判を、彼女(ハンナ・アーレント)は傍聴し、どのような人間が悪魔的な行動を取れるのかを分析しました。
アーレントはその分析結果を発表し、世間から大バッシングを受けました。
しかし、バッシングを受けるとわかっていても、彼女は事実を伝えようとしました。そんな彼女の生き方が描かれてた映画になっています。
陳腐さが悪を生み出す
まずは映画ハンナ・アーレントのストーリーをウィキペディアから引用します。
ハンナは「ニューヨーカー」誌の特派員として、裁判を傍聴することを志願する。自らの過去と向き合う苦痛を耐えてまで傍聴した裁判であったが、被告アイヒマンの大量殺人を指揮したとは思えぬ凡庸さに当惑する。一方で裁判での証言から、当時のユダヤ人社会の指導者たちが、消極的にではあるがナチの政策に協力していたことまで明らかになってゆく。帰国したハンナは、膨大な裁判資料と向き合いながら、鬼畜のようなナチ高官と思われていたアイヒマンは、自らの役職を忠実に果たすことを自らに課していたに過ぎない小役人であること、一方でユダヤ人社会でも抵抗をあきらめたことで被害を拡大したこと、アイヒマンの行為は非難されるべきだが、そもそもアイヒマンを裁く刑法的な根拠は存在しないこと等をニューヨーカーの連載記事として掲載する。出典 ウィキペディア ハンナ・アーレント
ハンナ・アーレントが1963年に雑誌『ザ・ニューヨーカー』に連載したアドルフ・アイヒマンの裁判記録が『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』であり、これが映画化されたものです。
この本を参考にスタンフォード大学が行った実験が、かの有名な『スタンフォード監獄実験』というやつです。
普通の大学生を看守役・受刑者役に分け、それを演じさせると、時間が経つにつれ被験者はより看守らしく、受刑者らしい行動を取るようになることが証明されました。→スタンフォード監獄実験
アドルフ・アイヒマンについても少し調べてみましょう。
ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。出典 ウィキペディア アドルフ・アイヒマン
要はユダヤ人を強制収容所に送り込んだ責任者ですね。
ハンナ・アーレントが提唱した“悪の凡庸さ”は、私たちには受け入れがたいことです。
アイヒマンは、言ってみれば極悪人で、悪魔のような男だと思われていました。そりゃあそうですよね。何百万人ものユダヤ人を強制収容所に送り込んでいたのですから。
ナチスなんてのは悪の代名詞で、弁明の余地なんてないと思われていました。だから裁判なんてのも茶番で、『どうやって死刑にするか』ってことくらいしか関心がありませんでした。
だけれども、ハンナ・アーレントは裁判を見て、資料を読み込んだ結果、アイヒマンはただの人だと判断を下しました。
アイヒマンは極悪人とか鬼とか悪魔とかじゃなくて、どこにでもいる役人と変わらない、ただの普通の人だとアーレントは言いました。
世間はそれを受け入れられませんでした。
我々と同じ人間が何百万人も殺すことができるわけないと信じたかったのです。
これまでの“悪”というものは、悪魔的なものが人間に宿ると思われていました。しかし、これからの“悪”は陳腐になり、一般の陳腐さこそがこれからの悪を生み出すとアーレントは結論づけました。
簡単にいうと、大衆は誰でもアイヒマンになりうるし、誰でも数百万人を殺害できるということです。
「そんなこと信じれない・・・」と思いたい気持ちもわかります。これはドイツの話ですが、私たちの国、日本について見てみましょう。
日本の負の歴史に“特攻隊”というものがありますね。一万数千人が特攻隊で亡くなりました。
誰がこの人たちを殺したのでしょうか?
天皇が殺したわけでも、首相が殺したわけでも、上官が殺したわけでもありません。
それは時代の空気であり、その時代の流れに逆らえず、逆らう思考力を失った陳腐で一般的な人たちが「ただただ、命令に従った」結果です。
つまり国が、国民全員が殺したようなものです。
陳腐なもの、ありふれたもの、ありきたりなもの、それが悪を引き起こすことになります。
裁判でアイヒマンは自分の無罪を主張していました。「私は命令に従っただけだ」と。
映画でアーレントはこう言っていました。
「ソクラテスやプラトン以来、私たちは思考をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。」
この映画から学べる思考することの大切さ
ハンナ・アーレントの映画で私たちが学べることがあるとすれば、それは“思考をやめないこと”です。
思考を捨てると、誰でもアイヒマンのようになってしまう可能性があるからです。
「俺は思考を捨ててない。」「私は思考を捨ててない。」
そう言い切ることができますか?
なんとなくで大学に行ってる。
授業に出ても寝てるだけ。
レポートはネットからコピペ。
なんのために働いているかわからない。
自分がやってる仕事がなんの意味があるのかわからない。
給料を得るためだけに会社に行っている。
考えてもどうにもならないから、仕方なく今を生きている。
そういう人って多いと思うんです。
思考を失うと、いつの間にかモラルを失い悪を引き起こします。新聞やメディアを見ると「なんでこの人が犯罪を?」的なものが目につきますよね。
膨れ上がった民意の怖さ
ハンナ・アーレントの映画をみて、リーガルハイ(ドラマ)を思い出しました。早速ユーチューブで検索してみたら、すぐに見つかったので転載します。
夫や愛人を毒殺し、『悪魔の女』と呼ばれている人を弁護する話です。
「本当の悪魔とは巨大に膨れ上がった時の民意だよ。自分を善人だと信じて疑わず、薄汚い野良犬どもがドブに落ちると一斉に集まって袋叩きにしてしまう、そんな善良な市民たちだ。」
このドラマが言うように、本当の悪魔とは、思考を停止した人たちの膨れ上がった時の民意なのでしょうね。
時代の流れや、世間の流れに盲目的になり、それが正しいと思い込むことが危険だと、ハンナ・アーレントもリーガルハイも警鐘を鳴らしているのだと思います。
今回の記事も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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