論理的思考を学ぶ前に知っておきたいデカルトの考え

哲学・宗教
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本日も「Gallagher Note」をお読みいただきありがとうございます。
こんにちは、福山です。

「我思う、ゆえに我あり。」

この言葉は誰もが一度は耳にしたことがある言葉なのではないでしょうか。デカルトの言葉ですね。今回の記事ではデカルトについて簡単に説明したいと思います。

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全てを疑え!まずはそこからだ!

デカルト(1596-1650)はフランスの哲学者であり数学者で、近代哲学の祖・合理性の祖と言われています。

「良識(=理性)」は、この世で最も公平に配分されているものである」

これはデカルトが1637年に発表した代表作「方法序説」の冒頭で、こんなことを言ってるように人間の「理性」について考えました。

デカルトの主張はこうです。

「よく判断し真なるものを偽から分かつ能力、これが本来良識または理性と名付けられるものだが、これはすべての人に生まれながらに等しい。」

簡単に言うと、真実をみつける能力は誰もが生まれながらに持ってい流、ということですね。

合理性の祖、つまり理性的思考によって真理を探究しようとしたのがデカルトです。つまり「自分の頭で考えよう」ってことです。

でも自分の頭で考えるというのも実は難しいことです。これを深く追求したところにデカルトのすごさがあるのです。

だって人が考えることって大体は外の刺激を受けての反応ですからね。しかも外の刺激を受けるということは自分の感覚の問題だから、自分の感覚が正しいかどうかもわかりません。

そこでデカルトかとった方法が「方法的懐疑」です。

これはギリシアのピュロンに始まる「真理や本性なんて知ることなんて無理」という懐疑論と異なり、「真理を求め、あえて疑うという手法をとる」という方法です。

だからデカルトはすべてを疑うことにした。文字通りすべてのことを疑ってみた。

『言葉の通り、疑って疑って疑いまくりました。』

でも、すべてを疑ってみても、答えは出ないし、真理なんて見つからなかったのです・・・疑いが晴れることはなかったのです・・・

だけど1つだけ分かることがありました。

「疑う」という思考は存在している。その思考をしているのは私の身体であり、存在しているということだ。

これが「我思う、ゆえに我あり。」ですね。

デカルトはこの「思考する自分」の存在を哲学の第一原理として、新しい哲学を構築しようとしたんですね。

この方法的懐疑は今の時代にとっても必要なことな気がします。「すべてを疑え!」って言われてもなんか嫌ですが、身近なところを少しでも疑っていくというのはとてもいいことだと思います。

例えば今触ってるパソコンやスマートフォンはどういう構造で動いてるの?とか、タッチパネルってなんで指を認識するの?とか簡単なところから疑えていきますよね。この疑いをもつことが大事ですよね。

デカルトが気づいたもう1つのこと「精神」と「肉体」

疑う思考こそが自分の存在だ!ってことがわかりました。

でも身体は単なる感覚器官ですよね。例えば、目の錯覚というように、目は簡単に真実をごまかされてしまいます。感覚器官は騙されやすいものだからすぐに騙されてしまいます。

だからデカルトは「身体(感覚器官)でさえ疑え!」と言ったのです。

今までの哲学では精神と身体は分けられないものでした。しかし精神(疑えないもの)と身体(疑えるもの)は別物であるということが分かったのです。これを物心二元論と言います。また疑えない精神の方が疑える身体よりも優位になるとも考えました。

というわけで、

疑いえない精神で、自分の身体を含めたあらゆる物体を考察することが正しい科学だよって説いたのです。

理系としては「なるほど〜」って思いますけど、難しいですよね。

でもこの考えがあったからこそ科学は発展してきたのだと思います。だからデカルトは近代哲学の祖とか合理性の祖とか言われてるんですね。

デカルトのまとめ

考える能力は人間なら誰しも平等に持っているものなんだから「考えろ!疑え!」