唱えるだけでは勿体無い。般若心経を簡単に理解しよう!

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「般若心経」と聞けば、なんとなく仏教の経典みたいなものだなってイメージがあると思います。仏教はブッダが作ったんだから、ブッダの教えが般若心経だ!と思うかもしれないのですが、ところがどっこいこれは違うんですね。

般若心経はブッダの死から500年以上たって現れた「大乗仏教」を信仰とする一派が作り上げたものだから、ブッダの教えをまとめたものが般若心経ってことではないのです。ですがその一派もブッダの教えをよりよくしていこうとして般若心経を作ったのでしょうから、「変なもの」と決めつけるのは早急です。

それにここまで般若心経が世の中に浸透しているのですから、きっと良いモノなのでしょう。ってことで今回は般若心経のお話になります。

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五蘊(ごうん):人間を構成するもの

まずはブッダの教えにある「五蘊」について理解しましょう。

人間を構成するものに5つの要素があり、5つの要素とは「色」「受」「想」「行」「識」の5種類です。

  1. 色:物質のこと(人間で言えば肉体)
  2. 受:外界からの刺激を感じ取る(感受)
  3. 想:なにかを考えること(構想)
  4. 行:なにかを行うこと(意思)
  5. 識:認識すること

この5つの要素の集合体が人間であり、五蘊の集合体といいます。

般若心経は五蘊を否定する

般若心経はブッダの考えである「五蘊」を否定したのです。つまり「五蘊なんてない!」と言い切ったのです。

般若心経と言ったら「色即是空」「空即是色」を思い浮かべると思いますが、これは「物質要素(色)がない状態が実態であり、実態がない状態が物質要素(色)なんだ」と言ってるのです。

わかりづらいと思うので、すごく砕けた言い方に直すと「この世の全ては実態がなく、実態がないものこそがこの世だ!」と言ってるのです。

ブッダと般若心経の考えの違い

ブッダの考えの基本的なことに、「存在要素が実在している」ということがあります。存在要素が複雑に絡み合い、ある因果法則により集合体として形成されていると考えます。だから「私」という集合体は「ただの集合体」で、細かく分ければ小さな存在要素の組み合わせに過ぎないということです。「絶対的な私」というものはないけれども、存在要素はあるってことですね。まだ分かりにくいかもしれないので、例として車を出して考えてみましょう。車というものは様々なパーツが組み合わさってできています。エンジンやタイヤがハンドルやガラス・・・などなど。しかしタイヤなんかはゴムでできてるし、ゴムは原子でできてるし、原子は素粒子でできてるし・・・と細かく分ければいつかは「存在要素」にいきつくわけです。ぼくたちはその存在要素の集合体に「車」という名前をつけただけであり、車という絶対的なものが存在しているわけではありません。

般若心経の考え方は、ブッダの言う「存在要素」もない!と言っているのです。ブッダの考えは科学的な考え方に似ていますが(構成要素を無限に分けていけば、いつかはこの世を構成している最小単位にたどり着く的な)、般若心経は神秘的な考えが根本にあるんですね。存在要素もなければ、因果法則もない、だからいくら知恵を絞って世の中をみたところで、見えてくるものは何もない。この世の真の姿は見ることもできないし、言葉で言い表すこともできない世界なんだ!ってのが般若心経の考え方なのです。

般若心経の素晴らしさは「神秘」

上記に見てきたように、般若心経は全てを否定しています。というのは五蘊を否定しているからであって、物質もないし、外界からの刺激もない、考えることなんてないし、行動するなんてこともなければ、認識することもない。世の中は実態がなく、実態がないことが世の中なんだ!ってのが般若心経でした。

さて、ブッダのように悟りに近づいた人にはどんな言葉をかけてやるのがいいでしょうか?ない、ない、すべてのものはないんだ、とあと一歩で悟れそうな人に何をしたらよいのだろうか。

そこで般若心経で示したものが「ぎゃていぎゃていはらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか」という呪文なのです。訳としては「行けよ行けよ、彼岸と行けよ、彼岸へと行き着いたものよ、それが悟りだ、幸あれ」といった正直しょうもない意味なのです。

しかし、意味なんかどうでもいいのです。悟りを開きそうなものにかけてやる言葉はなく(言葉はないのだから)、むしろ言葉は必要ないのです。

「自分がない」という自我への崩壊が仏教の目指すところであるのなら、それを目指すには覚悟が必要であり、その勇気を出させるために呪文を使ったのですね。

結局悟りとは無分別智に行き着くこと

分別知

ぼくたちがモノゴトを学び、理解するときは知らず知らずに「分別知」というやりかたをとっています。これは「足し算」を学び「引き算」を学び、そこから「掛け算」「割り算」・・・といったふうに知識を組み合わせてどんどん新しい知識を増やしていきます。これを繰り返せば高校生の時には「微分積分」を理解することも可能となるのですね。

知識の集合体が分別知といってよいでしょう。

では「知識」とは何でしょう?少し考えてみてください。

 

頭のなかで「知識ってなんだろうな〜?」と「言葉」を使って考えてませんでしたか?ぼくたちは言葉を使って知識を溜め込んでいるのです。言葉というものがなければ知識を得ることはできないでしょう。

つまり知識(言葉)と知識(言葉)の組み合わせが分別知になるのです。

じゃあ「言葉」って何でしょう?これも少し考えてみてください。

 

言葉とは「何かと何かを自分の利益にともなって区別すること」です。例えば、バナナとリンゴはぼくたちは違うものとして認識しています。もちろんできる場所も違うし、味も違うし、形も色も違います。でもそれを区別している理由はバナナもリンゴも人間にとって利益があるからなんですね。バナナもリンゴも食べない動物にとって区別する必要はありません。肉食動物がそれらを区別する必要がありますか?ないですよね、だってどっちだっていいんですから。

もう少し分かりやすくしてみましょう。

公園の砂場に行くと、当然ですが「砂」がありますよね。この砂一粒一粒を区別しますか?しませんよね、だって区別したところで利益にならないから。つまり区別する必要がないのです。

ぼくたちは自分にとって利益がありそうなものに「言葉」をつけて他のものと区別をするのです。

無分別智

もともとぼくたちは分別知を持っていたかというと、そんなことはありません。赤ちゃんのころぼくたちは世界のモノゴトを区別して見ていなかったのです。

バナナもリンゴも、なんならバナナとリンゴが乗っている皿、そして机にも区別という名の境界線を引いていなかったのです。言葉を知らない赤ちゃんはどうやってモノゴトを理解したのか?少なくともぼくたちが行っているような「分別知」は使ってないはずです。

この理解の仕方を「無分別智」と呼びます。

言葉を用いて世界のモノゴトを区別するのではなく、モノゴトを直感的に理解することができるのであれば、それが「真理」です。仏教徒が目指しているのが「無分別智」であり、その境地に達するために修行を行っているのです。

無分別智の境地に達するためには、分別を止めるしかありません。そのために「今まで分別してきたことを否定する」という方法を取り、それが般若心経なんですね。

分別知の最後の砦が「私」と「他」

「すべてのものはない!」と否定したとしても、最後に残るのが「それを否定しているのは自分」です。西洋哲学者のデカルトは「我思う故に我あり」という言葉で、世界のモノゴトは疑い尽くせるが、それを疑っている私は疑いきれないという結論に達し、「自己」の存在を見つけました。仏教ではその「自己」をも「ない」としたいのです。

「私」と「他」を区別している絶対的な境界線を破壊することが仏教の究極的な目的なんです。

究極の境界線を壊すのは「死の体験」

「私」と「他」の区別が無くなるときは「死の体験」にほかなりません。まさに自分と世界が混ざり合う瞬間。その瞬間には「見る」とかそんな認識できるものは消え失せます。「見る」という行為は「見るものと見られるもの」という2つのものが存在して成り立つことですから、「私」と「他」が融合した時には「認識するものと認識されるもの」の区別がなくなるのです。

そんな「死の体験」に近いことをしなくては本当の真理にたどり着かないというのであれば、真理を目指す行為はただの恐怖でしかありません。ですがその恐怖を前にしてもなお真理の扉を叩こうとするもののために、般若心経の呪文が与えられたのでした。ぎゃーていぎゃーてはらぎゃーていはらそうぎゃーていぼーじーそわかー!

 

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