*この記事は2018年に書いた「基礎研究と応用研究の違い」のリライトです。
基礎研究と応用研究の違いについて、2018年当時の私の理解は、おおむね次のようなものでした。
・応用研究は、何かの役に立てるための研究 ・基礎研究は、何の役に立つか分からないけれど面白いからやる研究
・基礎研究は民間でお金が集まりにくいから、国が支えるべきだ
言いたかったこと自体は今でも理解できます。すぐに利益にならない研究にも価値があり、短期的な成果だけで研究を評価するのは危ういということです。
しかし、読み返してみると当時の説明はずいぶんと大雑把でした。研究は単純に「役に立つか、立たないか」で二分できるものではありません。また、「民間ではお金が集まりにくい」としても、なぜそうなるのかという構造的な理由をほとんど考えていませんでした。
そこで今回は、「基礎研究と応用研究は何が違うのか」、そして「社会に価値を生む可能性がある基礎研究に、なぜ市場の力だけでは投資が集まりにくいのか」を改めて整理してみます。
なお、日本の研究費や研究時間、博士進学といった現在の研究環境については、別記事「日本の科学技術はどこが細っているのか?研究費・研究時間・博士進学から考える」で詳しく調べました。この記事では現状分析には深入りせず、研究そのものの性質に話を絞ります。
基礎研究・応用研究・実験的開発の違い

研究開発(R&D)の分類として国際的に広く使われているのが、OECD(経済協力開発機構)の「フラスカティ・マニュアル」です。
この基準では、研究開発を大きく3つに分類しています。
・基礎研究:現象や観察可能な事実の根底にある原理について、新しい知識を得る研究。特定の応用や用途を直接は想定しない。
・応用研究:特定の実際的な目的や課題に向けて、新しい知識を得る研究。
・実験的開発:研究や実務経験から得た知識を使い、さらに新しい知識を生み出しながら、新しい製品や工程を作ったり改善したりする活動。具体的な成果を目指す。
ここで重要なのは、基礎研究も応用研究も、どちらも「新しい知識を得る研究」だということです。
両者の違いは「役に立つかどうか」ではありません。「最初から特定の実用目的を直接念頭に置いているかどうか」です。
かつての私は、基礎研究を「面白そうだから調べるもの」と捉えていました。もちろん知的好奇心が大きな原動力になる研究は多いですが、それが定義ではありません。
フラスカティ・マニュアルでは、基礎研究をさらに「純粋基礎研究」と「目的指向型基礎研究」に分けています。
純粋基礎研究は、知識そのものを前進させることを主な目的とします。一方の目的指向型基礎研究は、具体的な用途までは決まっていなくても、将来の問題解決につながるような広い知識を生み出すことを期待して行われます。
つまり、「基礎研究とは研究者が好きなことを自由に調べている研究だ」というイメージも正確ではありません。
また、実験的開発も単なる製造作業ではありません。研究開発には、新規性、創造性、不確実性、体系性、成果が移転可能または再現可能であること、という条件があります。すでに確立された方法で同じ製品を量産するだけの作業は、研究開発には含まれません。
「基礎研究から製品へ」と一直線に進むわけではない

この3分類を見ると、「基礎研究から始まり、応用研究へ進み、実験的開発を経て製品になる」という一本道を連想しがちです。私も以前は、そのように考えていました。
しかしマニュアルには、この記載順序が研究開発プロセスの段階的な順序を意味するわけではないと明記されています。実験的開発を進める中で基礎的な疑問が生まれることもあれば、基礎研究の成果が直接、新しい製品や工程につながることもあります。
同じように、「大学は基礎研究の場、企業は応用研究の場」という線引きも正確ではありません。
企業も基礎研究を行いますし、大学でも応用研究や実験的開発は行われます。「誰が研究するのか」と「どんな種類の研究なのか」は別の話です。企業が短期的な商業用途を見込まずに基礎研究を行う場合もあります。
CRISPRに見る、行き来しながら進む研究の姿

研究が一本道で進まない例として分かりやすいのが、ゲノム編集技術のCRISPR-Cas9です。
1987年、石野良純氏らは大腸菌の遺伝子を調べる中で、後にCRISPRと呼ばれる不思議な反復配列を発見しました。この研究は、ゲノム編集技術を作るために行われたものではありませんでした。
その後、世界中で多くの研究が積み重なります。2007年には食品企業Daniscoの研究者を含むチームが、CRISPRが細菌をウイルスから守る仕組みに関わっていることを実験的に示しました。
そして2012年、Martin Jinek氏、Emmanuelle Charpentier氏、Jennifer Doudna氏らが、この仕組みを利用して狙ったDNAを切断できることを示します。Charpentier氏とDoudna氏は2020年、ゲノム編集法の開発によってノーベル化学賞を受賞しました。
約25年にわたる多くの研究者の成果の積み重ねですが、興味深いのは、最初からゲノム編集を目指して始まったわけではない点です。大学だけでなく企業の研究者も重要な役割を果たし、基礎的な発見と実用的な課題が行き来しながら技術が発展しました。
そして、そこから生まれた価値は最初の研究者や組織だけにとどまらず、医療、農業、生命科学など幅広い領域へ広がりました。
このように、研究から生まれた価値が研究主体の外側へ広がる現象は、次に説明する「知識のスピルオーバー」につながります。
なぜ市場だけでは研究への投資が不足しやすいのか

ここが、以前の記事を書いたときの私が最も見落としていたポイントです。
研究によって生み出される知識は、普通の商品とは少し性質が違います。
たとえば、1個のリンゴを誰かが食べれば、別の人は同じリンゴを食べられません。しかし、ある数学の公式や科学の法則を誰かが使っても、別の人が使えなくなるわけではありません。何人が同時に使っても、知識そのものは減らないのです。
経済学では、この性質を「非競合性」と呼びます。
さらに、お金を払わない人の利用を排除しにくい性質を「非排除性」と呼びます。この2つをあわせ持つものが、経済学でいう「公共財」です。
知識は特許や営業秘密で利用を制限できる場合もあるため、すべてが完全な公共財とは言えません。そのため、「知識には公共財的な性質がある」と考える方が正確です。
ここから、投資が不足しやすい構造が生まれます。
企業が多額の研究費を使って新しい知識を生み出しても、その成果は論文、学会発表、研究者の転職、共同研究などを通じて組織の外へ広がっていきます。研究費を負担していない別の企業や研究者も、その知識を土台にして新しい研究や技術を生み出すことができます。
これが知識の「スピルオーバー(波及効果)」です。
企業が研究投資を考えるとき、自社が負担する費用と、自社で回収できる利益を比べるのは自然なことです。
しかし社会全体から見れば、研究の価値は自社の利益だけにとどまりません。その知識を活用して他社が生み出した技術や後続研究、そして消費者が受ける恩恵まで広がります。
つまり、「研究費を出した主体が得られる私的な収益」と「社会全体にもたらされる社会的な収益」に開きが生じることがあります。社会全体にとっては行う価値がある研究でも、費用を負担する企業単体で見れば採算が合わず、投資が見送られてしまうのです。
個々の企業が合理的に判断した結果として、社会全体から見ると研究投資が少なくなってしまう。このような状態を、経済学では「市場の失敗」と呼びます。
実証研究でもこの差は示されています。Bloom氏らによる米国企業の分析では、技術のスピルオーバーを考慮した研究開発の社会的収益は、企業自身が得る私的収益の少なくとも2倍に達すると推計されています。ただし、これは基礎研究だけを対象にした数字ではなく、米国企業のR&D全体を対象にした推計です。
重要なのは「2倍」という数字そのものよりも、研究から生まれた価値を、研究費を負担した主体だけでは回収しきれないという構造です。
なぜ基礎研究では特に市場からの投資が集まりにくいのか
知識のスピルオーバーは基礎研究だけでなく、応用研究や開発でも起きます。そのうえで、基礎研究には市場からの投資をさらに難しくする2つの要因があります。
1つ目は、成果の行き先を予測しにくいことです。
基礎研究は特定の用途を目的としていないため、成果がどの産業で、どんな製品に、いつ結びつくのかを事前に見通すことは難しくなります。
2つ目は、基礎的な知識そのものを独占することに限界があることです。
日本の特許制度でも、自然法則そのものや単なる発見は「発明」とは認められず、特許の対象にはなりません。基礎知識を応用した具体的な技術は特許化できても、その大元となる広く利用可能な原理や法則を、一企業が囲い込むことには限界があります。
基礎研究への投資が市場で不足しやすいのは、「役に立たないから」ではありません。役立つ場合であっても、その価値が広く社会へ波及するため、研究費を出した主体だけでは十分に回収できないことがあるからです。
なお、研究開発は成果が不確実で無形資産が中心となるため、銀行融資などの担保になりにくいという資金調達上の課題もあります。ただし、これとスピルオーバーによる投資不足は別の話です。スピルオーバーによる投資不足は、企業に十分な資金があったとしても起こります。
それでも企業が基礎研究をするのはなぜか

ここまで読むと、「それなら企業は基礎研究をまったくしないのではないか」と思うかもしれません。しかし実際には、企業も基礎研究を行っています。
その理由として重要なのが「吸収能力(absorptive capacity)」という概念です。
経済学者のCohen氏とLevinthal氏は、研究開発には新しい知識を生み出すだけでなく、外部で生まれた知識を理解して自社に取り込む能力を高める役割もあると論じました。自社でも研究を行うことで、大学や他社など外部で生まれた新しい知識の価値を理解し、自社の技術へ取り込みやすくなるという考え方です。
つまり、市場に任せても企業の基礎研究がゼロになるわけではありません。
「企業にも基礎研究を行う合理的な理由はあり、実際に行われている。それでも、社会全体から見て望ましい水準と比べると、投資が少なくなりやすい」と考えるのが正確です。
公的支援には意味がある。ただし配り方は別問題

研究から生まれた価値を投資した主体だけでは回収しきれず、市場の力だけでは投資が不足しやすい。これは、基礎研究に公的支援を行う経済学的な理由の一つです。
ただし、そのズレを埋める仕組みは一つではありません。
特許制度は、一定期間の独占を認めることで発明から利益を回収しやすくします。R&D税制によって企業の研究開発費の負担を軽減する方法もあります。そして、大学や公的研究機関への運営費交付金、競争的研究助成などを通じて、政府が直接資金を出す方法もあります。
OECDも、R&D税制優遇は民間R&D全体を増やす手段にはなり得る一方、研究を特定の社会的ニーズへ誘導したり、基礎研究と実際の製品・工程開発の間にある知識への投資を促したりする手段としては限界があるとしています。
だからといって、「基礎研究は重要だから、税金を無制限に投入すればよい」ということにはなりません。
公的な資金も有限です。研究費として使うお金には、医療、福祉、教育、インフラなど別の用途に使えたはずのお金という機会費用が存在します。
さらに、どの研究が将来大きな価値を生むのかは、政府にも事前には分かりません。
誰が研究テーマを選ぶのか。広く薄く配るのか、特定分野へ集中させるのか。いつ、どのような基準で成果を評価するのか。短期的な成果ばかりを求めれば基礎研究の意義が失われますし、かといって全く評価を行わなければ資金配分の妥当性を検証できません。
つまり、「なぜ公的支援が必要なのか」という理由と、「限られた予算をどこへ、どのように配るべきか」という配分設計は、別の問題です。公的支援に必要性があることと、実際の研究費配分が適切に行われているかどうかは切り離して考える必要があります。
研究費を見る物差しをアップデートする
以前の私は、「基礎研究は何の役に立つか分からないけれど大切だ」「民間がお金を出さないから国が支えるべきだ」と考えていました。
その問題意識自体は間違っていなかったと思います。しかし今なら、その背景にある構造をより論理的に説明できます。
基礎研究と応用研究の違いは、役に立つかどうかではなく、最初から特定の実用目的を念頭に置いているかどうかです。
そして基礎研究への民間投資が不足しやすいのは、役に立たないからではなく、生み出された価値が広く社会へ波及し、投資した主体だけでは十分に回収できないことがあるからです。
私自身が最も変わったのは、研究費について考えるときの視点でした。
以前は「その研究は将来役に立つのか」「研究費はいくら出ているのか」という点ばかりを見ていました。
しかし今は、それだけでは足りないと感じています。
社会全体にとって大きな価値がある研究でも、投資した主体がその価値を十分に回収できないのであれば、市場だけに任せたときに投資が不足する可能性があります。だからこそ、「その研究は役に立つのか」だけでなく、「その価値を誰が受け取り、誰が費用を負担するのか」という視点が必要です。
同時に、「市場だけでは不足しやすいから公的支援が必要だ」ということと、「だからこの研究に、この金額を配るのが正しい」という議論も分けて考えなければなりません。
「役に立つか、立たないか」の二択で考えないこと。 「公的支援が必要か、不要か」の二者択一で考えないこと。
研究によって生まれる価値がどこへ広がり、その費用を誰が負担するのか。そして、そのズレをどのような仕組みで補うのか。そこまで踏み込んで考えられるようになったことが、以前の自分と比べたときの一番大きな変化だと感じています。
参考資料
OECD|Frascati Manual 2015
https://www.oecd.org/en/publications/2015/10/frascati-manual-2015_g1g57dcb.html
OECD|Frascati Manual development
https://www.oecd.org/en/about/projects/frascati-manual-development.html
OECD|Public support to R&D and innovation
https://www.oecd.org/en/topics/public-support-to-r%26d-and-innovation.html
特許庁|特許・実用新案審査基準 第III部 第1章 発明該当性及び産業上の利用可能性
https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/guideline/patent/tukujitu_kijun/ht/03_0100.html
Econometrica|Identifying Technology Spillovers and Product Market Rivalry
https://doi.org/10.3982/ECTA9466
The Economic Journal|Innovation and Learning: The Two Faces of R&D
https://doi.org/10.2307/2233763
Administrative Science Quarterly|Absorptive Capacity: A New Perspective on Learning and Innovation
https://doi.org/10.2307/2393553
Journal of Bacteriology|Nucleotide sequence of the iap gene, responsible for alkaline phosphatase isozyme conversion in Escherichia coli, and identification of the gene product
https://doi.org/10.1128/jb.169.12.5429-5433.1987
Science|CRISPR provides acquired resistance against viruses in prokaryotes
https://doi.org/10.1126/science.1138140
Science|A Programmable Dual-RNA–Guided DNA Endonuclease in Adaptive Bacterial Immunity
https://doi.org/10.1126/science.1225829
The Nobel Prize|The Nobel Prize in Chemistry 2020
https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/2020/press-release/


コメント