「いい子に育ってほしい」
これは父、母、そして祖父や祖母の心のなかにある共通した願いでしょう。
子どもの将来を願うことは親心として当然のことです。(最近はモンスターペアレントのネグレクト型として子に関心のない親もいるそうですが・・・。)
しかし、願いとは儚いもので、
「いい子に育って!」といくら両親が願っていても非行に走る子どももいます。
非行は大袈裟ですが、両親が望むような「いい子」にならないケースがほとんどでしょう。
今回は「いい子」について考えてみたいと思います。
いい子ってなんだ?
両親が願うような「いい子」に育つ場合もあれば、そうでない場合もあると思います。
では、どうしてその違いがあるのでしょうか?
それは目的を明確化させているかどうかによるところが大きいのです。
例えば、私の兄、姉とも自分の子どもには
「明るくて元気ないい子になってほしい」
と、ありきたりな例文通りの答えを返してきます。
そこで私は意地悪ですが、次の質問をします。(もちろん兄、姉の子のために)
「いい子ってどういう子?」
と。
兄「ん〜。いい子かぁ。優しい子かな。」
姉「そうね〜。喧嘩とかしない子かな。」
とまぁ、私の兄、姉はとても抽象的な言葉ばかりを返してくるのです。
優しい子=いい子、喧嘩しない子=いい子、ではないのです。
ここで必要なのは、いい子をもっと具体的にする必要があります。
日本の教育的に言えば、
「自ら学び、そこで得た知識を元に社会貢献をする子」かな?
具体的にすることで、「ではそのためにはどうやって教育をしていくのか?」が必要なのです。
ちなみに私がこの質問を兄にしたのは数年前で、今では兄の子は小学4年生になっています。
今では宿題もしない、連絡帳も書かない、とずいぶん兄の理想のいい子とはかけ離れた成長をしているそうです。
具体的な目標は子育てに必要
「いい子になってほしい」と願うだけでは、ほぼほぼ理想のいい子にはならないでしょう。
少し話は変わりますが、目標を持つこと関連の話をします。
太ってる女の子が痩せたいと思ったとします。
「痩せたいな〜」と願いました。
はい、問題です。この子は痩せることができるでしょうか?
他の例で、
英語を話せるようになりたいと思った子がいます。
「英語ペラペラになりたいな〜」と願いました。
はい、問題です。この子は英語ペラペラになるでしょうか?
当然ですがダイエットに成功する子もいますし、英語を喋れる子にもなります。
その違いは、具体的な目標を持てたかどうかです。
子育ても一緒で、「いい子」に育てたければ具体的な目標を持ち、
そのために親として何ができるかを考え、行動しなければなりません。
学校の先生に頼りすぎ問題
私の両親もそうですが、兄も姉も当然のように
「学校の先生は我が子をいい子にしてくれるはずだ!」
と思っています。
その強い思想はどこからくるのでしょうか?私には分かりません。
もちろん学校の先生の中には、身を削って子どものために努力される先生もいます。
しかし、そんな先生だけではありません。
毎日毎日多くの生徒を相手にし、授業や雑務に追われ、最近ではモンスターペアレントの相手もしなくてはなりません。
先生にとって理想の教師像があったでしょうが、現実問題そんあ悠長なことは言ってられないくらい忙しい毎日。
ひとりひとりの生徒の成長を思い、勉強だけでなく人間的にも成長してほしいと心のなかで叫んでも、
それは無理だ!と気づく先生がほとんどでしょう。
結局のところ学校の先生ができることは「授業」なのです。
いい子に育てるのは学校の先生ではありません。親です。
学校の先生になんでもかんでも頼りすぎ!
親が変わらねば子は変わらない
もし学校の先生に頼り過ぎているのだとしたら、今日から変わりましょう。
学校は勉強するところで、人間性の教育は親が行いましょう。
子育ての本を4,5冊読むなり、尾木ママのセミナーに出るなりしましょう。(尾木ママがセミナーやってるかしらないけど笑)
お金稼いで、ご飯を子どもに食べさせるだけが親の仕事ではないのです。
それくらい動物でもやってます。
人間として複雑な世の中を生き抜いていく知恵などもどんどん伝えていかないとダメ。
つまり子と同じよに親も成長する必要があります。
そうやってポジティブな連鎖を生み、家族の文化を築いていきましょう。
余談:核家族の弊害
核家族の弊害として、
やはり子どもが祖父母と接する機会が減ったのも人間性を育む損失でしょうね。
昔はおじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさんで子どもを育てていました。
それに多くの兄弟もいたので、人との関わりあいが多かったんですね。
「よし!核家族はやめてみんなで住もう!」なんて極端な考えはやめてくださいね笑
その頃の良かった面、核家族の良い面もどちらもありますから。