人間の自由とは何か?
という難しいテーマを考えたいと思っております。私の知識をこのページにてまとめました。
このページを読む前に、自分にとって「自由とは?」を考えてみてください。自分が考えた自由の根拠も添えてください。また、その自分の考える自由において、自分は自由なのか?自由になれそうなのか?を考えてみてください。
自由になったから自由について考え始めた
自由とは?を考える人は「私って自由じゃないなー。なんか息苦しいなー。」なんて思っているからこそ自由とは?を考えているはずです。
しかし、自由に考えれること自体が自由だったりします。なぜかというと、そんな“くだらない”ことを考えれる余裕があるからです。
明日のご飯に困っている人、毎日が手一杯な人、そういう人は自由について思考を巡らせる時間はありません。自由について考えれること自体が自由だったりするんですね。
二種類の自由
ここ100年くらいで自由について考えられてきましたが、自由は二種類に分けられます。
- 〜からの自由(Freedom from〜)→消極的自由と呼ばれます
- 〜に向かう自由(Freedom to〜)→積極的自由と呼ばれます
になります。
消極的自由と積極的自由はどちらがいい?
漢字だけ見ると『積極的自由』のほうが「自由に向かってるぜー」という感じでいいような気がします。
ただ、積極的自由を追求していくと『危険』とされています。それはなぜでしょうか?
積極的自由は全体主義に向かう
積極的に自由を求めていくと、全体主義になっていきます。つまり、自由を求めていくと、自由じゃなくなっていくのです。(全体主義は、個人は全体を構成する部分であるとし、個人の活動を尊重しなくなる。つまり、個人の活動は全体の成長・発展のために行わなければならないと考える→個人の自由や権利が無視される)
例えばアメリカは自由なのでしょうか?自由な国アメリカと言われるくらいに、自由さを押し出した国です。でも、今は全ての情報、プライバシーな情報を含めて、頭のいい人たちに握られています。
金持ちと貧富の差が激しいですし、格差は固定するなんて言われているように、自由な国に生まれても生まれが貧乏だったらずっと貧乏の可能性の方が高いのです。
消極的自由はほぼ全て達成
現代の日本は『消極的自由』はほぼ全て達成しています。『〜からの自由』においてはほぼ自由なんですね。
つまり、消極的自由はほぼ全て達成できていて、積極的自由を推し進めていくと全体主義っぽくなってしまう・・・という「どうしたらいいの?」状態になります。
消極的自由と積極的自由について考えるのは難しいので、ホッブズさんの考える自由についてみていきましょう。
ホッブズの考える自由
リヴァイアサンで有名なホッブズの考える自由をざっくり言ってしまうと、
「自然状態において、人間は自由である」
と言っております。
自然状態というのは、なんの制約もない状態ことです。例えば、人は誰かの親の元に生まれてきますが、この状態では“親という制約”ができてしまいます。この制約もない状態のことを自然状態といいます。まぁ、自然状態とは現実の世界にはない、思考実験状の状態のことです。
でもこれだと、「ワイを制限するものはないーーー!ヒャッハーーーーー!」となって、北斗の拳でいうところの世紀末状態になってしまいます。恐ろしい。まったくの制約がない状態は超怖い状態です。
ある一部の自由を放棄して新しい自由の獲得を
自然状態は究極の自由なのでしょうが、その自由はやばいよねってことです。
だったら一部の自由を放棄して、社会を法治化しようというのが、ホッブズの考える社会契約になります。放棄した自由を国家(リヴァイアサン)に預けましょうってことですな。
市民的自由の獲得
一部の自由を国(社会)に預けることで、市民権的自由を手にしました。そのおかげで話がややこしくなるのですが、これで2つの自由が誕生しました。
- 一部の自由を除いた『自然権的自由』:人間であることを保障する(世界のどんなところに生まれても人間であれば自由)
- 市民的自由:市民であることを保障する(共同体の中においては自由)
この2つの自由を区別しておくことはとても大切になります。なぜかというと、私たちが自由を語るとき、この2つがごちゃ混ぜになって考えられてしまうからです。
自然権としての一部の自由を放棄すること
自然権的自由の一部の放棄について、もう少しだけ具体的に見てみましょう。
私たちは、いろいろな共同体に所属しています。
- 日本(国家)
- 県
- 市
- 会社
- 学校
などなど。どれか1つのものではなく、複数のものに所属しています。それぞれの共同体にルール(法律、条例、規則)などがあり、何かに属する以上、そのルールは守らなければなりません。つまり、自然権的自由の一部を放棄しています。
共同体のルールを守ることで、
「このルールを守るんだったら共同体内で自由にしていいよー」
という自由を得るわけです。
自由から自己責任論を考えてみる
さてさて、よく言われる自己責任論を考えてみます。私たちは「責任を取るなら自由だよ」みたいな考えが染み付いております。しかし、今見てきたように、自由には2つがあるんですな。
- 自然権的自由
- 市民的自由
この2つの自由に対して、責任はどう変わってくるのでしょうか。
- 自然権的自由→自己責任
- 市民的自由→所属する共同体
私たちが「それ、自己責任でしょ」と言えるときは自然権的自由の時なのです。
例えば、国家のルールに従って消費税も払ってるし、住民税も払ってるし、年金も払ってるし、税金と名がつくものは全て払ってますよーということなのに、
国家「年金制度がもう持たないから、70歳以降に支給開始ね!」
とか言いだしたら、それは「貯金してないあんたが悪い、自己責任やね」とはならずに「国の責任や!」となるわけです。
ジャーナリストは自己責任?
危険な地域に行ってテロリストに捕まった人に、私たちはすごく冷たい態度をとります。「自己責任でしょ!税金を使うなんてとんでもない!」などというわけです。
その気持ちは分かります。そんなこと言われたら「そうだよねー」となります。でも一度立ち止まって考えなくてはなりません。本当にそうなの?と。
テロリストに捕まった人は日本人です。国家というのは、国民の安全やら生命やら財産を守るために『わざわざ作った』ものなので、何があろうと国民を守らなくてはいけないのです。
私たちは自由の一部を放棄して、国家のルールを守っています。それならば国家はその役割を果たさなくてはいけません。国家にはそういう義務があります。
ですから、税金で生きている政治家や公務員が「それは自己責任だ!」とは言ってはいけません。そんな無知無学な人に税金を払って給料を与えている方が、税金の無駄ってやつです。
重要なことは、危険なところに行ってテロリストに捕まった人に責任はないとは言ってないことです。もちろん責任はあります。しかし、国家としては「自己責任でしょ」と片付けてはいけないってことです。
自由民主主義における自由とは?
私たちが生きる自由民主主義の社会での自由とは、一体なんなのでしょうか?
それは、共同体のルール内の中であれば「自由にしていいよー」ということであります。そうであるならば、共同体のルールは誰が作っていくのでしょうか?
多数者の専制
民主主義は多数決で決まっていきます。政治家を選ぶときは投票数で決まりますよね?
だからこそ多数決で決まったことには従わなければなりません。しかしこれでは少数意見を抑圧している一面があります。
例えば友達とご飯を食べにいくとして、焼肉にする?寿司にする?ピザにする?という多数決を取ったとします。
- 寿司:3票
- 焼肉:2票
- ピザ:2票
ですと、寿司の勝利です。でも寿司以外を食べたい人の方が人数的には多かったりもします。でも、多数決で決まったことには従わないといけません。
民主主義の理念は一人一人の意見を尊重することなのですが、多数決でなんでもかんでも決めてしまうと、少数意見を抑圧することになります。“多数者の専制”というのは民主主義の欠点を警告している言葉なのです。
主観的には私たちは自由には生きていけない
発展途上国からしたら「日本はなんて恵まれている国なんだー」と思うでしょうが、日本に住んでいる私たちは、自由に生きていくことはできません。
共同体のルール、多数者の常識の中においてしか、自由に生きることはできません。
おわりに
自由って難しいですよね。難しいのです。特に難しくさせているのが、自由の概念がぐちゃぐちゃになっているところです。
- 自然権的自由
- 市民的自由
と、自由には2つあり、自由について考えるときはこれを区別しないといけません。そして何か問題が起こったときは、その責任を取る主体が異なってきます。
自由について論じるときは、この2つを意識してみてください。
何冊か本を紹介しておきますー。
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