この前、父親が亡くなりました。がんです。15年以上闘病生活を続けて亡くなりました。
平均寿命からいうと若い方ですが、人生50年と言われた時代からするととても長く生きられました。それに健康も気にせずお菓子やジュースをバクバク食べておりメタボでしたし、入院してタバコが吸えなくなるまで(病室は禁煙だから)タバコを吸い続けていたのですから、十分生きたのではないかと思っております。
高額療養制度も数年使っていたので、お国にはお世話になりっぱなしでした。ですから最後まで十分にいい治療を受けられていました。昔だったらとうの昔になくなっているところを、現代医療のおかげで生物的寿命の限界まで生きられたと思います。
で、『親の死』という貴重な体験の記憶が風化する前に、思っていたことを書き残したいと思います。(もちろんこれは死の一例で、すべてに当てはまるなんてことはありません)
痛み止めという名の麻薬を使い続けるので痛みなく死ねる
余命半年宣告が親にもされました。ドラマの通りで、患者本人がいないときにお医者さんから伝えられました。
宣告された後はいままでのような抗がん治療はなくなりました。もう治療しても無駄なんですね。がんがいろんなところに転移しているわけですから。
後は痛み止めだけです。(宣告される前から錠剤を飲んでいましたが)
がんの痛みを薬でなくすわけです。
でも死期が近づくにつれて、『いま使っている痛み止め』では痛みが抑えられなくなるようでした。となるとさらに強い痛み止めが必要になってきます。
強い痛み止めと言うと聞こえはいいですが、ようは麻薬みたいなものです。痛みだけをなくすわけではないのです。いろんな感覚が麻痺してしまいます。
親は死ぬ1ヶ月前くらいには入院し、そこから強い痛み止めが使われるようになりました。
それからは、もう親は廃人みたいになってしまいました。
- ほとんど寝るだけ。
- 起こしてもすぐに白目を剥き、意識が途切れ途切れになる。
- 昨日の面会のことをなに一つ覚えていない。
- 起きた時に「もう〇〇県についたのか」など、入院していることすら忘れ、夢と現実の区別がついていない。
- スマホは触れるけど、文字も打てない。
- 「中国人に狙われている」みたいな虚言も言い出す。
麻薬ジャンキーな人に直接会ったことはありませんが、この親の状況を見て「あ、麻薬常習してる人ってこんな感じなのかな」と思いました。
入院し、強い痛み止めを利用し、ベッドの上で過ごす時間が多くなった父親は、日に日に弱るというか、意識を保っている時間が少なくなるというか、会話らしい会話はできなくなりました。
最低限できて安心した会話としては、「痛みはない」とのことでした。がん末期でも、痛み止めを使えば痛みなく死ねるようです。(ほんとうに最後らへんになると、声も出せなくなっていました)
ここまでくると、言い方は悪いですが、後は心臓が止まるのを待つだけです。もうどうしようもないんです。
心臓が止まるまで様々なコストは発生し続ける
んで、ここからが考えさせられるところです。
痛み止め&酸素吸入をしながら心臓が止まるまで待つ…ここでもコストが発生してるんですよね。
特に、看病してる人が大変なんですよね。うちの場合は母親です。
コロナ禍ということもあり、父親のいた病院では面会時間がたったの15分でした。というわけで母親は毎日15分のために、1時間の移動(高速道路を使って)をしていました。往復で2時間です。
母親はこれまでに十分に父親を看病していました。介護と言ってもいいかもしれません(下の世話なども)。これまでの看病ですでに疲れています。
そしてここに追い打ちをかけるように、毎日往復2時間の高速道路での移動。高齢者女性にとってはきついです。(本人はランナーズハイならぬ、看病ハイで気がついていませんが)
見ているこちらが辛いです。母親の顔はめちゃくちゃ疲れているのが分かるんですよ。それも日に日に。(1ヶ月で体重は5kg落ち、BMIが18台になっていたそうです。BMI18って女性では相当低い方です)
それに、過労により注意力が散漫になりいつ事故を起こすか心配でなりません。(事故は他の人に迷惑をかけますし)
そういうことを伝えても、母親は「でも病院に行かなくては」と言います。そりゃそうですよね。長年連れ添った夫が危篤なのですから。(でも面会に行ってもまともな会話はできません)
でもね、もうどうしようもないんです。それともう闘病生活中に十分に会話はできたはずです。
と言っても、仕方ないんですけど。
また入院するということは、医療資源(看護師さんもそうだし、薬などの医療費もそうだし)をつかうということでもあります。先に書きましたが父親は高額療養制度を何年も使っているので、もう十分すぎるほどお国のお世話になっているのです。もうこれ以上、将来世代の人たちに負担をかけてほしくないんです。
ということで、こういう状況下の中であれば安楽死でいいのでは?と思っちゃったんですよね。高齢者で、十分な治療を受けた上で余命宣告をされて、痛み止めの副作用でほとんど会話もできない状態になった場合、安楽死でいいのでは?(安楽死と尊厳死の違いについてはこちらの記事で書いています→安楽死と尊厳死と自裁死の違いについて調べてまとめてみた)
(そもそもさ、痛み止めを打ち続けて心臓が止まるまで生かすという現状もさ、ほぼ安楽死に変わりはないわけですし。)
痛み止めを打ちまくりほとんど会話もできない状態って、誰の幸せなの?
父親の最後を見て、「これ、誰が幸せなんだろう?」と思ってしまいました。
痛みなくゆっくりと死ねるというのは、父親にとっては幸せなことだと思います。でも、ずっと病院。
コロナ禍ということもあり、1日15分しか家族に会えません。毎日面会に行けるのは母親くらいなので、すごく寂しいはずです。(抗がん剤でしっかり治療できるような大きな病院が自分の家のどれくらい近くにあるかによっても状況は変わりますが、ほとんどの人はそんな病院が近くにはないはずです。)
母親も最後まで大変です。介護で疲れていた中で、最後の1ヶ月くらいは毎日病院通い。心労が溜まり、どんどん痩せていっていました。料理する気にもならないらしく、栄養あるものも食べていませんでした。(私がいたときは料理してあげていたのですが、それだけでは栄養は不十分です)
看護師さんも大変です。医療費も大変です。医療費は限界突破しており、それが自分の孫世代に降りかかるのですから、孫としてもいい気はしないんじゃないかな。
というわけで繰り返しになりますが、高齢者で、いままでに十分に治療してきて、とうとう余命宣告されて、痛み止めでほぼ寝てる状態になったら、安楽死でいいのでは?と思ってしまいました。
痛み止めを与え続け、心臓が止まるまで生かすってほぼ安楽死だと思うんですよ。だったら一思いに…しちゃったほうがみんな幸せになるんじゃないのかなぁと。
みなさん、どう思われます?
とまぁ、親が死んで思いました。
(ちなみに、痛み止めで痛みはないけれどなんか苦しそうでした。たぶん呼吸がうまくできていなかったんだと思います。酸素吸入機みたいなものをつけていたのですが、それでも苦しそうでした。そして、それを外そうとしていました。普通に考えたら外したらダメなのですが、もうそーゆーことを考えられなくなっていて、「酸素吸入機が肌についているのが不快」と感じたから無意識的に外そうとし続けていたのだと思います。)
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